1947年
台湾で二・二八事件が起こる
1945年8月15日、日本は降服しました。日本の領有していた台湾の統治と日本軍の武装解除は、連合国の委託を受けた中国国民党政府が担当することになります。言うまでもなく、台湾を中国領とする蒋介石らの意向でした。
国民党軍が進駐した時、台湾住民、すなわち本省人は、同じ中国人による統治を歓迎します。しかし、国民党軍のモラルは乱れきっていました。まるで占領軍のように台湾住民に対し乱暴狼藉の限りを尽くし、それを訴えても、取り合ってもらえませんでした。
日本によって近代開発が進められ、産業振興や農業開拓が進み、治安もよく、官憲の腐敗も少なかった台湾では、日本人が支配者であったとはいえ、台湾人も高い教育を受けたものが多く、知識化していました。そのため、同じ中国人の国民党軍の民度の低さが大きな衝撃だったわけです。
更に国民党軍は、台湾の産業、資材を横領し、経済状況は急速に悪化。
そんな不満が高まっている中、台北市でタバコを売っていた女性が摘発され、許しを乞う女性に暴力を加え、商品と財産を没収します。タバコは中華民国になって以降は専売制に移行していましたが、大陸では自由販売になっていたため、その様子を見ていた台湾人は不当行為と批判。官憲側は住民に発砲。火に油を注ぐ事になり、各地でデモが起こります。デモ隊に無差別銃撃を加えるなど、事態は深刻化。台湾人は「君が代」を歌えたため、大陸から来た外省人を探すために君が代を歌わせ、外省人とわかると暴行します。さらにラジオ局を占拠して決起を訴えるなどしたことから、台湾行政長官兼警備総司令の陳儀は、話し合いに応じると見せかけて時間を稼ぎ、蒋介石に派兵を求めます。蒋介石は軍を派遣。医者、裁判官、学者、役人、学生など知識階級の本省人を次々と逮捕し、問答無用で殺害しました。日本に亡命した台湾人も多数います。
少なくとも2万8千人が殺害されましたが、実際にはもっと多いと言われています。日本は彼らを救うことは出来ませんでした。
この件は、長いこと台湾ではタブー視されます。しかし、民主化の進んだ李登輝政権以降は、政府も謝罪し、解明に向けて実態調査を進めています。
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