1866年
第二次長州征伐(慶応2年6月7日~)

禁門の変のあと、御所を攻撃したことを理由に、長州藩は討伐を受けます。これが第一次長州征伐。しかし大きな戦闘はなく、征長総督参謀の西郷隆盛によって、3人の家老(国司親相・福原元僴・益田親施)の切腹と4人の参謀の斬首で処置が終わりました。藩内で椋梨藤太らの俗論党が権力を握って恭順を図ったためで、切腹した3家老のうち国司・益田の2人はまだ若者、福原は穏健派で禁門の変を起こすことに否定的だったと言われています。
ところが、長州藩内で強硬派の高杉晋作らによる反乱(功山寺挙兵)が勃発。思わぬ勢力へと拡大し、俗論党政権は瓦解。椋梨は処刑され、幕府に対抗する政権が樹立します。彼らは、軍制を大きく替え、秘密同盟を結んだ薩摩藩の名義で亀山社中を仲介にグラバーらから軍艦や武器を購入。町人や農民も動員した皆兵制度を導入。大村益次郎が戦術を考え、戦争準備を進めました。これらの動きはもちろん、幕府にも明らかだったため、第二次長州征伐が決定します。しかし、薩摩は、露骨に反対。幕府の権威に関わる事態になります。
幕府は薩摩藩を排除して4口からの攻撃案を立てて15万とも言われる諸藩の兵を動員。将軍家茂も大坂に入り、幕府艦隊が出撃しました。艦隊は長州藩領の周防大島を砲撃し、ここに開戦。長州側では「四境戦争」と呼びます。
この戦争は幕府にとって予想もしない方向へと向かうことになります。長州藩が各地で勝利し、それに伴い、諸藩が「戦後」を見据えて厭戦的になり勝手に撤退や出兵拒否の動きを見せはじめたのです。そして将軍家茂の病死。幕府は休戦せざるを得なくなります。たった一藩に敗北したことは、幕府崩壊の始まりでした。

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