1703年
元禄赤穂事件・元禄15年12月14日

元禄14年3月14日(1701年4月21日)、東山天皇の勅使饗応が行われる予定にあった江戸城中松の廊下において、突如、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、高家筆頭吉良上野介義央に対して抜刀の上襲いかかります。吉良上野介は額などに負傷するも助かり、浅野内匠頭は取り押さえられ、即日切腹となりました。
この大事件に幕府は長矩の弟で養子の浅野大学長広を閉門処分とし、浅野家の縁戚である美濃大垣藩主戸田氏定、大垣新田藩主戸田氏成、武蔵岡部藩主安部信峯、旗本安部信方、浅野長恒、浅野長武らを江戸城登城禁止処分にしました。
情報は江戸の藩邸から次々と飛脚便が国元へ送られ、赤穂藩は大騒ぎになります。吉良義央が生存しているという情報がもたらされると藩士の論は、吉良への敵討ちで盛り上がります。しかし、それは赤穂藩の存続に関わる問題でした。また、赤穂城で切腹することを主張する派が主力であったため、敵討ちを望むものは江戸へと下り始めます。家老の大石内蔵助は、当初、藩再興に積極的でしたが、それが叶わなくなると、京へ移り、放蕩三昧を繰り返します。理由はよくわかりませんが、ドラマなどでは、敵討ちを決心し世間にごまかすためだったというのもあります。
世間の評判が悪くなり、敵討ちを警戒した吉良家では幕府に保護を求めますが、幕府はまるで討入りするならこちらへ、と言わんばかりに屋敷替えを行います。吉良義央から養子を受けた上杉家が支援していました。討ち入り派も脱落者が相次ぎ、それは様々なエピソードを作られて物語にされました。大石が江戸に入り、元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂浪士四十七士は、吉良邸へ討ち入り、凄絶な死闘の末、吉良義央は殺害され、奮戦した若き当主吉良義周も重症を負いました。四十七士に犠牲者はなし。赤穂浪士の処分方法は幕閣の間でも意見が別れ、最終的に武士の立場を重んじて切腹に処されました(足軽出身者だった寺坂吉右衛門信行のみ討ち入り終了後に離脱。特に罪には問われていません)。
討ち入りの日に合わせて赤穂義士祭が関係各所で行われています。一方、吉良は特に戦前の忠孝礼賛の時代には悪玉の代表となり、散々に言われてきました。しかし吉良家の領地では彼は庶民のための政策を行い、名君と評されています。名君か悪玉かは、彼の立場と、吉良と浅野の間で何があったかということに集約されるといえるでしょう。

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