1854年
安政東海地震(嘉永7年11月4日)

江戸でももっとも大きかった地震の一つ安政東海地震。いわゆる東海地震です。
マグニチュードは8.4。震源地は駿河の地下から駿河湾海底を経て、東海沖にかけてと広範囲で、東南海地震のエリアも含まれます。
激しい揺れで、震源地に近い駿府、甲府、掛川の各城下町は壊滅的な被害を出し、駿府城と掛川城は崩壊しました。東海道の各宿場町は軒並みやられています。江戸や江戸郊外、畿内、北陸でも大きな揺れを観測し、耐震技術のない時代ですから、大きな被害を出しました。震度は最大7クラスだっと見られます。揺れも甚大でしたが、津波も大きく、10~20mクラスの波が東海道一帯を襲いました。伊豆ではロシア軍艦ディアナ号が大破し、後に沈没しています。
死者数の記録がはっきりしていないため、3000人以上という説もあります。
この地震の特徴は、別の地震との連動性。5ヶ月前に伊賀上野地震が起こったことを皮切りに、この地震、そしてわずか32時間後に、安政南海大地震(マグニチュード8.4)が起こり、土佐高知や大坂などで甚大な被害を出しました(当時の情報伝達速度の遅さから、東海地震と同じ地震と思われていた)。南海地震の40時間後に、豊予海峡で大規模な地震が(3連続の大地震で被害の区別ができず詳細不明)、翌年には旧暦2月に越中・飛騨地方で飛騨地震、9月に遠州灘地震、その4日後に江戸直下で安政江戸地震(安政東海、安政南海、安政江戸が安政三大地震)、と連続して巨大地震が相次いでいます。地殻変動によりそれぞれが関連したものと考えられています。
また、公式ではないですが、富士山から黒煙が上がっている記録があり、小規模の噴火の可能性もあります。宝永地震と宝永噴火の例もあるため、東海地震と富士山の噴火は関連性が指摘されています。

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