1352年
足利直義急死(正平7年2月26日)

足利直義は、足利貞氏の3男で、足利尊氏の同母弟になります。
元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇が倒幕挙兵すると、尊氏は命により討伐の兵を向けますが、京で反旗を翻し、六波羅探題を攻めました。その際に直義も兄に従っています。尊氏と直義の兄弟は母が同じで年齢も近く、非常に仲が良かったといいます。
幕府が倒れ、後醍醐天皇が復権して建武の新政が始まると、直義は左馬頭となり、鎌倉府将軍となった成良親王を奉じて鎌倉に下り、執権となります。室町幕府の関東支配の拠点となった鎌倉府はここから始まったと言えます。
建武2年(1335年)に北条高時の子時行が信濃で挙兵。中先代の乱が起こります。直義は討伐軍を率いて向かいますが、武蔵国町田村井出の沢の合戦で敗北し、北条軍は鎌倉へ侵攻してきます。直義は尊氏の嫡子義詮をつれて脱出しますが、この際に、武家に対して警戒感の強かった幽閉中の護良親王を殺害しています。
足利尊氏は征夷大将軍の地位と反乱討伐を願いますが、後醍醐帝は警戒して許可せず、尊氏は独自に出兵。直義はこれと合流して、反乱軍を鎮圧。鎌倉を奪還しました。尊氏は独自に論功行賞を行い、京に戻らなかったため、今度は尊氏自身が討伐の対象となってしまいます。尊氏は隠居・赦免を申し出ますが、直義は迎撃軍を出し、手越河原で新田義貞に敗北。尊氏もついに挙兵し、京へ侵攻。楠木正成、新田義貞によって再度敗北し、西へ落ち延びるも、光厳上皇の院宣を受け、西国の武士団を率いて戻り、湊川で勝利し入京。光明天皇を擁立して室町幕府を成立させました。後醍醐天皇は京を脱出し吉野朝廷(南朝)が開かれます。
ここまでは兄弟の協力が大きな力を持ちました。尊氏は征夷大将軍として、実際の政務は直義が担当することになります。
ところが、この二頭体制が幕府内部を分裂させます。後醍醐帝の崩御後、情勢は落ち着き、直義政権が強化されますが、これに反発する高師直らと対立(※)。やがて盛り返してきた南朝勢力の京侵攻に対応した直義が敗北し、高師直・師泰が四條畷でこれを撃破し、吉野まで落としたことから、政権内部で両者の対立が激しくなります。一旦は尊氏によって高師直が解任されますが、師直の武力反攻で、逆に直義が出家するに至ります。さらに尊氏の庶子で直義の養子となっていた直冬が直義支援のため兵を挙げ、九州で勢力を拡大したことから、尊氏が討伐に出陣すると、直義は身の危険を感じ南朝へ投降。ただし直義はあくまで北朝・室町幕府を主として考えていたようです。
尊氏らは南朝と直義の討伐を目指しますが、直義側が勝利。尊氏は高兄弟の殺害で和睦し、直義は幕府に復帰しますが、兄弟の仲は修復せず、対立は再燃。今度は尊氏と義詮が南朝に降服して要求を飲み(正平一統)、直義を攻めます。両者は関東・北陸・信濃で戦闘を繰り返しますが、南朝方が京と鎌倉へ侵攻し、兄弟和睦の機運も高まります。しかし京や鎌倉を南朝から奪還すると両派は再衝突。直義方は、各地で尊氏側に敗れ、鎌倉で降伏、幽閉されました。直義は翌年急死。尊氏に毒殺されたという説も有力です。この一連の騒乱を観応の擾乱といいます。
※高師直は新興武家勢力の、足利直義は鎌倉以来の守旧武家勢力や寺社の代弁者だったとされ、その対立が表面化したものともいわれます。

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