802年
阿弖流爲が降伏

旧暦4月15日。ユリウス暦(以下も)では5月19日。
阿弖流爲(アテルイ)というのは、蝦夷の軍隊を率いた人物。蝦夷は朝廷に従わなかった東日本の独立勢力です。
788年(延暦7年)、紀古佐美率いる朝廷軍は、陸奥へと侵攻します。アテルイは北上川流域で迎え撃つと、巣伏の戦いで数倍の朝廷軍を撃破します。朝廷軍の死者は千人を越える大損害を出しました。川を使って寡兵で大軍を撃破するという戦術的勝利だったわけです。
このあと、延暦13年6月13日(794年7月14日)に大伴弟麻呂、坂上田村麻呂がコンビを組んで蝦夷征討を行い大勝します。この戦いにアテルイが軍を率いて応戦したのかどうかはわかりません。さらに延暦16年11月5日(797年11月27日)には坂上田村麻呂が征夷大将軍になり、801年には蝦夷討伐を朝廷に報告しています。おそらくこれらの遠征に対抗していたのだと思います。
そして802年、阿弖利為と母礼(モレ)が率いる500人が降服し、二人の指揮官は京へ連行されました。7月10日(同年8月11日)京に到着。田村麻呂は二人を戻して蝦夷に降伏を求めさせる案を出しますが、公家衆はそれを認めず、8月13日(同年9月13日)に処刑されました。
朝廷に逆らった蛮族、という扱い方で歴史に記述されてきたアテルイやモレですが、現代では徐々に再評価されてきています。勝者が書く歴史がどこまで事実を記述しているのか、本当はどうだったのか、それはきちんと研究すべきことだと思います。

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