1983年
ベニグノ・アキノ・ジュニア暗殺

ベニグノ・アキノ・ジュニアは、フィリピンの名門の家に生まれました。父は大戦中の親日政権ホセ・ラウレル大統領に仕えています。彼は父とは逆に戦時中抗日ゲリラだったマグサイサイ大統領に仕えました。フィリピン共産党の抗日ゲリラ組織で、戦後も反政府軍だったフクバラハップのリーダー、タルクを降伏させて、高く評価され、国民の人気を得ました。
しかし、フェルディナンド・マルコスが独裁政権を獲得すると、その人気と実力が危険視され、逮捕投獄、死刑判決を受け、国民の人気を考慮してアメリカへ追放されました。
投獄されたことで挫折したためか、キリスト教徒として行動するようになり、非暴力を唱え、マルコス政権を批判しました。彼は危険を承知で帰国することを決意し、台湾経由でフィリピン・マニラ空港に到着。しかしタラップを降りたところで暗殺されました。ロランド・ガルマンという男が射殺したとして彼も殺害されますが、同行取材していたTBSの映像から、暗殺したのはガルマンではなく、護衛していた兵士ではないかと考えられます。
マルコス自身の命令ではなかったと言われるものの、黒幕は曖昧なままになり、この事件は、マルコスにとって最大の政敵がいなくなったことになりますが、同時に国民の殆どを敵に回す羽目になりました。
ベニグノ・アキノ・ジュニアの妻、コラソン・アキノは反マルコス運動を全土に展開。1986年2月、大統領選挙を実施することになった結果、マルコスは票操作をはかろうとして軍や教会の反発を買い、軍と市民100万人が蜂起。コラソンは彼らの圧倒的な支持を得て大統領となりました。マルコスと、悪名高きイメルダ夫人はアメリカ政府の勧告により、アメリカへ亡命し、独裁政権はあっけなく崩壊しました。

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