41年
カリグラ暗殺

カリグラはローマ帝国第3代皇帝。カリギュラというふうに表現されることもあります。彼の在位期間は短く、現在一般的に非常に評判の悪い皇帝です。その理由は、彼が独裁者で、残忍で、建設事業に浪費し、更に性的倒錯者だった、という点。特にこの性的倒錯者は、カリギュラという名前をその意味で使うこともあるほどに浸透しています(妹たちや人妻など多数と関係を持ったとされる)。しかし実は、同時代の一次資料が乏しいことから、その実像はよくわかっていません。
実際の名は、ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス。そのためガイウス帝とも呼ばれます。
カリグラというのは愛称。幼い頃に父と共にゲルマニア遠征についていったときに小さな軍装を付けていたことから、その可愛らしさを気に入った兵士たちの間で「小さい軍靴」という意味のカリグラが愛称になったものです。
第2代皇帝ティベリウスの治世下では競争相手であったゲルマニクスの子であるカリグラの一家は迫害され、家族は離散し、死の淵に追いやられました。ティベリウスは有能で堅実な政治を行いますが、独裁的な所があり、予算縮小によって娯楽行事を廃止し、カプリ島に住んでそこから指示したことから、元老院や市民をないがしろにしたとして、人気の無い皇帝でした。
そのため、彼が年老いて死んだ時、市民は喜んで、カリグラへの帝位継承を支持したといいます。カリグラの幼い頃の従軍の話も兵士らの支持を得ました。初代アウグストゥスの系統という血統の良さもありました。
即位後は、ティベリウスによって廃止されていた剣闘士の競技会を復活させ、税制を大幅に緩和し、兵士に賞与を与えたり、追放刑にあったものを復帰させ、飢餓対策として海外からの穀物輸入を進めるなど、善政といって良い政策を行なったといわれています。ところが病に倒れてから、豹変します。次々と親族や忠臣を殺害。各地に宮殿や神殿、劇場を建設し、水道、港湾の公共行事も進めました(競技場の中央に置かれたエジプトのオベリスクは現在バチカンにある)。領土拡大にも意を注ぎ、ブリタンニアやマウレタニアへ広げようとしました。自身を崇拝させ、そのための神殿も作ったとか。
豹変した理由はよく分かっていません。脳神経系の病気を発症したのではないかとも言われています。また同時代の記録が乏しいため、これらの後世の記録の信憑性を疑う説もあります。
カリグラは、元老院と対立するようになります。その原因はよくわかっていません。ティベリウス派の議員や執政官を更迭し処刑したためとも言われます。元老院側の度々の陰謀が行われるようになり、ついに観劇の際に、カッシウス・カエレア率いる親衛隊将校により刺殺されました。妻カエソニアと娘ユリアも殺害されています。
暴君となったカリグラですが、市民には最後まで人気のあった皇帝で、暗殺事件のあと、怒り狂ったカリグラの警護兵は、暗殺者の兵士や敵対した元老院議員、事件の時周囲にいた人々まで襲って殺害、市民は暗殺者の処罰を求めて集会を開くなど大騒ぎに。叔父のクラウディウスが第4代皇帝に即位すると暗殺に関わったものの処刑を命じました。

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