1925年
治安維持法施行

公布は4月22日。
悪名高い法律として有名ですが、国体変革思想や左翼思想の取締を目的としたものです。国体とは簡単にいえば天皇を頂点とする国家体制のこと。成立の背景には大正時代のデモクラシーの拡大、共産主義運動の浸透があり、直接的には、関東大震災や、ソ連との国交樹立による左翼運動の激化を懸念したことがあります。
治安維持法はなんども論議された末に成立し、ほぼ同時期の5月5日に普通選挙法(衆議院議員選挙法の改正)も公布され、選挙権が大幅に拡大しました。権利の拡大と制限を同時に出す、いわば、飴と鞭の政策だったわけです。
治安維持法は、世相と戦況の悪化に合わせるように、1928年6月29日、1941年3月10日に段階的に厳罰化・適用拡大化しています。
そのため、特段反国家的ではない新興宗教、極右、自由主義者も逮捕者が相次ぎました。植民地を除く内地では7万人が逮捕されたといいます。転向が目的だったので、死刑はほとんど適用されていません。しかし、拷問などによる死者は相当数あったと言われています。また、植民地のうち、朝鮮半島での弾圧にも利用されました。
戦争終結ですぐに廃止されたかというとそうではなく、むしろ国難での共産主義運動拡大を恐れて、治安維持法継続を決めています。そのため同法違反で獄中にあった人が釈放されず、獄死する事態になったことから、1945年10月4日にGHQの指令が出され、それを受けて勅令により廃止されました。
同法のために暗躍した特別高等警察(特高警察自体は1911年の警視庁特別高等課まで遡ります)も同時に廃止されています。

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