209年
陳勝・呉広の乱

秦の二世皇帝の時に起きた大規模な反乱。以後の秦の滅亡、楚漢戦争、漢帝国の樹立につながる最初の大きな出来事。
陳勝と呉広はともに農民で、漁陽の守備につくため、他の900人とともに移動中、大沢郷というところで大雨により足止めを食らいます。期限に遅れると死刑、死刑にならずとも守備兵の6・7割は生きて帰れないだろう、と考え、二人は反乱を計画。魚の腹に「陳勝王」と書いた紙を入れたり、夜中に狐の声を真似して「大楚興、陳勝王」と叫ぶなど怪異の下工作で人々を不安にさせた後、呉広が将尉(引率官)を殺し、陳勝が演説して扇動し反乱を起こしました。この時の陳勝の言葉「王侯将相寧んぞ種あらんや(※1)」は非常に有名。
陳勝は始皇帝の長子で信望があったが殺された扶蘇を名乗り、呉広は楚の著名な将軍だった項燕を称しました。
反乱軍は周辺の諸都市を次々と落とし、陳で陳勝は即位して国号を張楚を号します。不満の高まりを受けて彼らのもとには各地から多くの人物が集まり、兵は万余を超え、各地に遠征軍を送るまでになり、ついには周章率いる一軍が函谷関を突破するに至りました。しかし、ここで秦の将軍章邯率いる大軍が出現。あっけなく敗れ、周章は戦死。以降、張楚は分裂して各地に独立勢力が出来てしまう事態に。陳勝では抑えきれなかったわけです。呉広は部下の田臧らに殺され、田臧も秦に敗死。陳勝は自ら出陣するも敗走。逃走中に御者の荘賈に殺されました。
こうして最初の反乱は終わりますが、その後にやって来た項梁、その後を継いだ項羽、そして楚漢戦争を経て劉邦が皇帝として天下を治める道筋を作りました。劉邦は、先鞭をつけた陳勝を手厚く祀ったと言われています。

※1:王侯将相寧んぞ種あらんや。王も貴族も将軍も宰相も、血筋でそうなったわけではない。努力すれば誰でもなれる、という意味。

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