1823年
千代田の刃傷事件が起こる。文政6年4月22日。

江戸城西の丸の御書院番を担当していた松平外記忠寛は、才能があり実直な性格でした。新参者の彼に対し、古参の旗本、本多伊織、戸田彦之進、沼間左京は、嫌がらせを繰り返します。当初は耐えていた外記ですが、ついに限界に達し、この日、3人を殿中に襲い斬殺します。さらに間部源十郎、神尾五郎三郎の2人を負傷させました。外記はそのまま自刃します。現場は大混乱に陥ったとか。
この事件は、旗本の間での風紀の乱れ、職場での古参が新参者をいびる風潮から起こったもので、大きな問題となります。
老中・水野忠成が詮議をおこない、そもそもの原因を引き起こした側の責任を問い、殺害された本多、戸田、沼間と、神尾の家を改易、間部は隠居処分にします。一方、事件を起こした松平忠寛の家は、親が隠居処分を受けたものの、忠寛の子の栄太郎が相続を認められました。異例の結果と言えるでしょう。
水野忠成は賄賂政治を行った人物ではありますが、田安徳川家と喧嘩をしたこともある硬骨なところがあり、将軍を守るべき旗本の質の落ちた風潮に考えるところがあったのでしょうか。
いつの時代も、いい年をした大人による職場でのイジメは尽きないわけです。

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