1657年
『大日本史』の編纂がはじまる(明暦3年2月27日)

水戸藩主徳川光圀が日本の国史を編纂する事業に着手したのは、幕府の史書編纂事業が明暦の大火で史料を失ったこと、またこの火災で膨大な蔵書を失ったために失意のあまり死去したとされる林羅山の存在が影響しているといいます。
林羅山は朱子学者で、幕府の命により3男の林鵞峯と共に『本朝通鑑』の編纂を行いましたが、水戸光圀はその内容に疑問を抱いていました。光圀は、明から招いた朱舜水に教えを受けて、歴史の正統性の重要性を認識しており、特に南朝にそれを求めていました。
彼は、大火で焼け落ちた藩邸から駒込の別邸に移って史館を置き、それをもとに彰考館を設立して、館員を全国に派遣して史料を集めさせました。史料収集と編纂事業を主導したのが吉弘元常・佐々宗淳(佐々介三郎)・安積澹泊(安積覚兵衛)らで、特に佐々と安積は、いわゆる「水戸黄門」諸国漫遊の助さん格さんの元ネタになりました。
大日本史は、編年体が一般的な日本の史書にしては珍しく「紀伝体」で記され、しかも漢文でした。中国の史書の影響を大きく受けたことがわかります。
光圀死後も、編纂事業は継続され、実に250年もかかって、完成したのは1906年でした。水戸史学は幕末の尊皇攘夷派に大きな影響を与え、特に「南朝正統論」は明治から昭和前期の思想に影響を及ぼしました。

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