エドワード・テラー
1908年1月15日~2003年9月9日。
ユダヤ系ハンガリー人の物理学者。水爆開発を推進したため、「アメリカ水爆の父」と呼ばれる。
ブダペストの弁護士の子として生まれる。幼少の頃から優秀で、数学とピアノ演奏に秀でていた。実家は共産主義のクン・ベーラ政権下で没落。さらに反ユダヤ主義が広がり、家族とドイツへ移住した。ライプツィヒ大学で物理学を学び、ゲッティンゲン大学に職を得るが、ナチスが台頭すると迫害を恐れて、デンマークを経由してアメリカに移住する。まもなく原爆開発を諮問するブリッグズ委員会のメンバーとして、レオ・シラードら同じハンガリー系物理学者と議論し、ハンガリー陰謀団と冗談めかして呼ばれた。
マンハッタン計画に加わり、同計画の主導者だったロバート・オッペンハイマーとも親しくなるが、オッペンハイマーが原爆開発に注力する中、テラーはその先の核融合兵器、すなわち水爆の開発こそ本命であるべきだと主張した。また独善的で協調性のない性格から浮いた存在となり、才能を惜しむオッペンハイマーはロスアラモス研究所内に彼のための部署を用意して慰留した。
最初の原爆実験を見た際に、「こんなものか」とつぶやき、核爆発に少なからず恐れを抱いた他の科学者とは一線を画した。
戦後、ロスアラモス研究所は縮小。彼の水爆開発の主張も受け入れられず、同研究所を去る。ところが、ソ連が原爆開発に成功すると、オッペンハイマーに水爆開発を働きかける。ところがオッペンハイマーは水爆開発には否定的だった。この頃から両者の間に隙間風が吹くようになる。彼は軍から水爆開発の協力を得られるようになった。
原爆を起爆装置にするだけでは核融合は不十分とわかり、水爆開発が行き詰まりを見せる中、彼と、ポーランド出身の数学者スタニスワフ・ウラムは、核分裂・核融合・核分裂の多段式であるテラー=ウラム効果を思いつき、これが水爆開発を一気に加速させた。このアイデアは物理学者らの間でも評判だったが、その独善的な性格が災いし、開発の一線から退けられる。彼はローレンス・リバモア研究所の創設にも関わっており、ロスアラモス研究所に対抗した。
エニウェトク環礁での最初の水爆実験アイビー作戦の際には、アメリカ本土にいて地震計を見ながら実験成功を確信した。このとき、子供が生まれた、と電報を打ち、水爆は「我が子」とアピールしたという。
マッカーシズム(赤狩り)が起こると、当時原子力委員会のトップで政界にも学界にも大きな発言力を持っていたロバート・オッペンハイマーまでがターゲットにされる。彼の家族がアメリカ共産党に関わっていたからだが、その査問会で、多くの物理学者がオッペンハイマーを擁護したにもかかわらず、友人のハンス・ベーテの忠告を無視して、恩義のあるオッペンハイマーを告発。この結果、オッペンハイマーは失脚し表舞台に戻ることはなかった。この件で、彼は再び、水爆開発の表舞台に戻ることになるが、一方で、多くの友人を失ったといわれる。
水爆開発への批判が沸き起こると、これは平和利用に応用できるとして、アラスカの海岸を複数の水爆で掘削し、巨大な港湾を作るチャリオット作戦を公表するが、地元の猛反発を買って中止に追い込まれた。
ローレンスリバモア研究所のトップに就き、カリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとる傍ら、引き続き核兵器計画に関わり、引退後も、戦略防衛構想に参加するなど政界・軍部に強い影響力を持ち続けたが、学者らの間での孤立感は強かった。オッペンハイマーとの関係も改善しようと賞を贈ったり手紙を送ったりしたものの、オッペンハイマーは彼との関係を復活させることはなかった。そのため、晩年は査問での告発を悔いていたともいわれる。
2003年9月9日に95歳で死去。最後の最後まで水爆開発を肯定し続けた。
核兵器開発以外にも、物理学の様々な発見や研究で業績を残しているが、「水爆の父」というイメージのほうがずっと強い。

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