1961年
イスラエルでアイヒマン裁判がはじまる

アイヒマンとは、ナチスドイツのゲシュタポに所属しユダヤ人対策を担当した人物。
当初はユダヤ人を国外追放、特にマダガスカルへ移す計画を立てていましたが、ナチス幹部によって決定された「ユダヤ人問題の最終解決」に従い(本人も絶滅政策の会議に参加している)、大量虐殺を指揮することになりました。特にガスによるまるで工場のような殺戮施設を管轄していました。彼はいかにも官僚的に厳格に実施を行い、絶滅収容所へ列車で次々とユダヤ人を輸送して行きました。
その「成果」を評価され、ハンガリーのユダヤ人対策の担当となりますが、ソ連軍が侵攻してくると、密かにオーストリアへ戻り、アメリカ軍に捕らえられるも、別人になりすまして脱出。ドイツ国内に隠れ、さらに難民に扮してイタリアへ。
フランシスコ会の支援で国際赤十字からリカルド・クレメントという名前で難民渡航証を受けると、アルゼンチンに渡りました。フランシスコ会もアルゼンチン政権も反共でナチス幹部の逃走や保護に協力していたわけです。
しかし、ナチス戦犯を追跡していたイスラエルのモサド(諜報特務庁)は、彼の居所を掴み、2年に渡る調査と準備を経て、1960年5月11日、アイヒマンを拉致。同国を訪問していたイスラエル政府関係者の乗る飛行機に乗せてイスラエルへと連れ去りました。戦犯とは言え、アルゼンチンの許可無く国外へ連れ去ったため、のちに抗議を受けることになりました。
裁判が始まると、アイヒマンは、あくまで上層部の命令に従っただけで無実を主張しました。彼には若い頃、ユダヤ人の友人もおり、特にユダヤ人差別主義者ではありませんでした。また、彼自身がひどく小役人的な人物で、大虐殺を指揮した大悪人に見えなかったことから、「人間は権威による危険な命令にどれだけ服従することができるのか」という心理実験「アイヒマンテスト(ミルグラム実験)」が後に行われることになりました。テストでは多くの被験者が人命に影響しかねない命令でも、権威者に従って実施してしまうことが証明されますが、アイヒマンが命令に従っただけとは、ナチス時代の行動を見ると言い切れませんでした。
1961年12月15日、すべての訴因で有罪が認められ、死刑判決を受け、1962年6月1日未明にラムラ刑務所で絞首刑に処されました。軍法を除く刑法で死刑のないイスラエルでは、唯一の死刑でした。

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