1807年
永代橋が崩落(文化4年8月19日)

隅田川に架かる永代橋は、将軍徳川綱吉の50歳を祝って架橋されたのが始まり。元禄11年(1698年)8月のことです。人口増に伴い、江戸の町が東へと拡大、今の江東区付近が新たに埋め立てられ、開拓されたため、架橋の需要があったのでしょう。
永代橋の名は対岸の永代島(現在の佐賀町)を結んで架けられたから、あるいは幕府の永代を願ったから、ともいわれます。誕生日を祝ってのことなら、後者もありそうです。場所は現在より100mほど上流。当時江戸最大の橋でした。赤穂浪士も討ち入り後にこの橋を通っています。しかし、この大きな川に架橋し維持するのは大変な費用がかかります。当時は木橋なので老朽化も進みました。幕府が維持管理を放棄することにしたため、町衆が幕府の許可のもと資金を出して維持することになります。ところが、文化4年。江戸の人々の人気スポットだった永代島の富岡八幡宮で開かれた八幡祭礼に向かった大勢の人々の重みで、橋の東側が崩壊。しかし渡橋中だった人々があとから押されて崩落部分から次々と転落し、死者行方不明者1400人という大惨事となりました。
狂歌師大田南畝は「永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」と皮肉を込めて詠みました。

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