1714年
絵島生島事件(正徳4年1月12日)
江島(絵島)は、6代将軍家宣の側室で7代将軍家継の生母となったお喜世の方(月光院)に家宣が甲府藩主だった時代から仕えていた女性。そのため、大奥に入ると、月光院のもとで強い権力を握りました。
この日、江戸城大奥御年寄の江島は、月光院の名代として徳川家宣の墓参のため、奥女中の宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣しました。その帰途、呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町の芝居小屋・山村座に行き、芝居見物。
山村座の看板役者は生島新五郎。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開きますが、大奥の門限に遅れてしまいます。大奥七ツ口で、門番と通せ、通さぬと、押し問答をしている内に、この騒ぎが知れわたってしまい、評定所が審理することになりました。実は大奥には、家宣の正室だった天英院を中心とする勢力が、月光院の勢力と対立関係にあり、月光院が新井白石や側用人間部詮房らと親しい事から力を持っていました。そのためこの騒ぎは、天英院側にとって、絶好の機会。さらに新井や間部の権力に不満を持つ譜代大名らとの権力闘争も背景にあったとも言います。
調査の結果、本来将軍個人に仕える大奥の風紀が緩んでいたこと、江島は生島と密会していると疑われて、死罪のところ、遠島に決まります。彼女の兄で旗本の白井平右衛門は斬首、弟の豊島常慶は重追放となりました。
月光院がさらに嘆願して、江島は信濃高遠藩内藤清枚にお預けとなり、高遠城の囲い屋敷に幽閉されました。一方の生島も、三宅島への遠島、山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。他の芝居小屋も営業を大幅に制限されました。芝居に誘った後藤らも遠島。50人ほどが連座されました、
大奥は天英院派が権力を握ります。彼女が推したという徳川吉宗が8代将軍となると、高遠藩主内藤頼郷が江島の赦免を願い出て認められ、幽閉処分だけは解除されました。生島も遠島を解除され江戸に戻ったといいます。
明治以降、芝居で取り上げられ、映画やドラマの題材にもなりました。
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