1541年
フランシスコ・ピサロが暗殺される

ピサロは、カスティーリャ王国(今のスペイン)生まれで、インカ帝国を征服したコンキスタドール(征服者)。
中南米を度々探検した人物でしたが、インカ帝国の存在を知ると、スペイン王カルロス1世(のちの神聖ローマ帝国皇帝カール5世)の許可と支援を受けて、パナマからインカ帝国へと侵攻。1532年11月、皇帝アタワルパを油断させて捕らえ(カハマルカの戦い)、多額の身代金を得た上に、翌年7月26日に彼を脅して改宗させた上で処刑、首都クスコを落として1535年1月18日に新たな首都としてリマ市の建設を開始しました。
同じコンキスタドールで、征服戦争ではパナマで後方支援にあったディエゴ・デ・アルマグロと新都市建設を進めていましたが、ピサロが征服者の権利をスペイン王室より得たことから両者は対立。一旦はアルマグロが南方(現在のチリ)の征服に出たことで収まるも、チリ征服に失敗したアルマグロが戻ってくると、両者の対立は再燃。ピサロはアルマグロが病に伏したところを逮捕し、1538年7月8日、彼に死刑を宣告して処刑しました。
しかしピサロ自身も、アルマグロの遺児エル・モソ(アルマグロ2世)によりリマで暗殺されるのでした。
インカの皇帝を殺し、財宝を奪い、文化を破壊したピサロは、インディオはもちろん、白人との混血メスティソからも忌み嫌われています。

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