1968年
藤田嗣治死去
藤田嗣治は洋画家。1886年(明治19年)に軍医だった藤田嗣章(のちの陸軍軍医総監)の子として生まれた彼は、子供の頃から絵が好きで、それが高じて画家としてフランスへの留学を夢見るようになります。父の関係で軍医総監でもあった森鴎外の勧めで東京美術学校(現東京芸大)に入り、卒業後は展覧会などに出品しますが、当時の画壇は、黒田清輝らのグループが力を持ち、その画風に合わない彼は相手にされませんでした。
まもなく結婚するも、妻を置いてフランスへ渡り、妻とは離婚。芸術家が多く住んだパリのモンパルナスに居住。彼を支援したのはパトロンとして知られた超大富豪、バロン薩摩こと薩摩治郎八。藤田はパリで最新のキュビズムやシュールレアリズムに触れ、日本で権威を誇っていた黒田清輝らの印象派が時代遅れであることを知ります。
のちにエコール・ド・パリと呼ばれた様々な新たな画風とそれを生み出す自由奔放な暮らしを送る若き画家たちに惹かれた彼は、教え込まれた作風のすべてを捨て、透明感のある独特の画風を生み出して行きました。
第一次大戦の頃は絵が売れず、貧窮しますが、終戦間近になりにわかに評価が高まるようになりました。このころフランス人と再婚。戦後の新たな時代に藤田の画風ははまり込み、人々に賞賛され、経済的にも成功。サロン・ドートンヌ(1903年に誕生した新進の展覧会)の審査員に推挙されるなど大変な人気を博しました。
1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章も受けています。南北アメリカでの個展も大成功をおさめるほど。私生活では2番目の妻と離婚後、3度目の結婚をしますが、これもまもなく破綻。
1933年日本に帰国しますが、日本での評判はまったくありませんでした。欧米での賞賛に画壇から嫉妬を買ったと言われます。日本で終生の伴侶となる君代夫人と結婚。その後、従軍画家として中国で活動後、一旦はフランスへ戻りますが、第二次世界大戦勃発で再び帰国。
戦時中は、いわゆる「戦争画」を多数描きました。彼自身、国のため、という意識もあったようで、それは日本で受け入れられない孤独感もあったのかもしれません。この戦争画にも沢山大作があります。
ところが、終戦後、この戦争画によって「戦争協力者」だとして、洋画家で日本共産党員の内田巌らに激しい糾弾をうけるはめに。ここでも藤田に対する嫉妬があったという説もあります。また、藤田のような「協力者」を攻撃することで、自分への批判をかわそうという意図もあったでしょう。戦時下で協力を拒むのは画家としては困難であり、殆どの国民が戦争に協力する中では心理的にも難しかったわけですから。
他にも日名子実三(※)など同様の理由で攻撃された芸術家は多数います。
どこまでいっても日本から嫌われることに嫌気がさした藤田はフランスに渡りました。フランスでも過去の人という扱いでしたが、それでも受け入れられ、フランス国籍を取得。カトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタと名乗りました。スイスのチューリッヒで死去。
死後になって、ようやく、日本でも評価されるようになり、日本政府から勲一等瑞宝章を追贈されたりしますが、藤田自身は祖国に対する孤独感から離れることが出来なかったでしょう。
※日名子実三は彫刻家、デザイナー。宮崎の八紘一宇の塔(現平和の塔)の彫刻設計や、デザインとしては日本サッカー協会のサッカーボールを抑える三本足の八咫烏が有名(発案は内野台嶺)。
ウインドウを閉じます
★総合年表
★総合年表ブログ