1028年
藤原道長没(万寿4年12月4日)

道長は藤原北家の藤原兼家の五男(四男という説もある)。藤原道隆・藤原道兼の弟。しかし二人が死去し、道隆の嫡子伊周との政争に勝って実権を握りました。すでに藤原北家は他の同族や他家を抑えて絶大な権力の位置を占めていましたが、道長はさらに高い権力を目指し、天皇に娘を嫁がせ、生まれる孫を天皇にすることを画策しました。彼は、一条天皇、三条天皇、後一条天皇に娘を嫁がせました。しかも後一条天皇は一条天皇と自分の娘彰子が生んだ天皇ですから、徹底しています。一家立三后と呼ばれました。
このうち一条天皇は彼を右大臣、藤原氏長者、関白に補し、道長は最終決定権のない関白は拒絶したものの、その権力掌握を認めますが、三条天皇とは対立しており、天皇を退位に追い込んでいます。後一条天皇の時はより実権のある摂政となり、1年で息子の頼通にその地位を譲って後継体制も固めました。
後一条天皇だけでなく、後朱雀天皇、後冷泉天皇も彼の孫に当たります。
まさにこの絶対権力が、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という有名な歌に読まれた自信に現れています。
一方で、数多い子供の一部は彼より先に亡くなっており、幸福なことばかりではありませんでした。
晩年は法成寺の建立に意を注ぎ、多くの公家や庶民らも造営に参加させました。末法思想に自らも取り付かれていたのかもしれませんし、自分の思う思想を広めたかったのかもしれません。
その死因は、記録から糖尿病(飲水病)という説もあります。贅沢な生活を送っていたのでしょうか。
彼の子孫(御堂流)のみが摂関職を世襲し(武家関白を除く)、五摂家と九清華のうち三家(花山院・大炊御門・醍醐)が分かれ出ており、その絶対的な地位は子々孫々にまで受け継がれました。
ちなみに、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房(女官)として仕えたのが紫式部で、彰子の立后を図る道長の意を受けて、天皇の感心を引くために記したのが、源氏物語であるという説もあります(彼女が盛んに攻撃した清少納言は、藤原道隆の長女である中宮定子(一条天皇の皇后)に仕えており、彰子とはライバル関係だった)。

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