214年(建安19年)
伏后が廃される
漢王朝最後の皇帝献帝(劉協)の皇后だった伏寿は、献帝が董卓によって擁立された頃に宮中に入った。董卓が殺されたあと、献帝らは長安を脱出し、軍閥などの支援を受けながら、1年かけてようやく旧都洛陽に戻るも、洛陽は廃墟と化していた。そこで曹操が支援の手を出しその本拠地の「許」へ遷る。もちろん、曹操は献帝を手中に収めることで大義名分を手にするのが目的だった。
曹操は徐々に献帝周辺のものを、自分の息のかかったものに置き換えたため、建安5年(200年)、それに反発した董承・王子服・种輯らが曹操暗殺計画を企てた(劉備も加わっていたと言われる)。しかしこの陰謀は露見し、董承らは族誅された。この時、董承の娘で献帝の側室だった董貴人は妊娠していたが、献帝の懇願にも関わらず処刑された。
それを目の当たりにした伏后は、父の伏完に手紙を送り、曹操を排除すべきだと訴えた。だが伏完はその手紙を隠し、建安14年に亡くなる。
建安19年、突如、この伏后の曹操排除を父に訴えた一件が明らかになる。曹操は献帝に迫って伏后の廃止を強行。御史大夫の郗慮に皇后の印綬を奪わせ、尚書令の華歆に皇后連行を命じた。華歆は部屋の中に隠れていた伏后を発見すると、戸を壊し壁をぶち破って引きずり出す。ざんばら髪に裸足で連れていかれる伏后は、その途中、献帝のいる部屋の前を通りがかり、「陛下、またご一緒できますでしょうか」「私もどうなるかわからぬのだ」と会話を交わして別れた。
伏后は「暴室」に入れられ、そこで亡くなった。曹操は献帝の皇后に自分の娘の曹節を入れた(※1)。
この話は曹操の悪辣さを強調するものとして、「曹瞞伝」という書物に登場する話であり、それを正史「後漢書」が採用し、小説「三国志演義」でも取り入れられた。これにより華歆は、極悪人として中国では評判の悪い人物(※2)。
もっともこの話、どこまで本当かは不明。かなり創作的な内容であるし、「曹瞞伝」は、敵国の呉で書かれた曹操を批判する書物でかなり怪しく、「後漢書」もかなり時代を経た曹操悪玉時代になってから編纂された歴史書。一方、より近い時代に記された正史「三国志」ほか複数の書物では、華歆は至極まっとうな人物として事跡も記されている。
おそらく華歆は立場上、曹操による廃后の手続きを担当して名前が残ってしまったものと思われる。豊臣秀吉の悪行を担当して悪名を残した石田三成と似ている。さらに華歆は、もともと孫策・孫権に仕えていたが曹操に誘われ鞍替えした。そのため呉で評判が悪かった可能性もある。
ちなみに、伏后が死んだとされる「暴室」は、いかにも拷問部屋のような響きだが、本来は病室のこと。「暴(ばく)」は日にさらすことを指し、布を日にさらす部屋が、日当たりが良いため病室に使われるようになった。そこが貴人を幽閉する場所として使われるようになったとみられる。
※1伏寿に代わって皇后となった曹節は、兄の曹丕が献帝(劉協)から禅譲を受けて魏の初代皇帝となる際に、皇后の印綬を引き渡すのを拒絶し兄を批判、山陽公の身分に落とされた劉協とその後も一緒に暮らした。その劉協は、娘を曹丕の嬪(側室)にしている。
※2小説『三国志演義』では劉備・諸葛亮らが善玉であるため、それと対立した勢力、人々は、概ね悪人か無能な人物にされており、それが史実だと思われがち。華歆や蔡瑁、呂蒙などは悪人、周瑜や魯粛、曹仁などはかなり無能扱いとなっているが正史での記述は全く異なる。
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