1948年
ガンディー暗殺

マハトマ・ガンディーは本名をモハンダス・カラムチャンド・ガンディーといい、ポールバンダル藩王国の宰相カラムチャンド・ガンディーの子。マハトマは「偉大なる魂」という意味で、詩人タゴールに贈られた尊称。
子供の頃は非常に素行の悪い人物でした。その後、留学先のロンドンで法律を学び、弁護士となります。南アフリカへ渡り弁護士として開業しますが、南アフリカは人種差別の強い国。彼も差別され、それに反発してインド系移民の権利擁護運動をするようになります。第一次世界大戦で、イギリスはインド人の協力を求め、代償によりインドの自治を認めますが、勝利したイギリスは自治どころかインドの支配を強化。さらに抗議するヒンドゥー教徒をイスラム教徒の兵を使い武力で弾圧しました(アムリットサル事件)。イギリスは信用出来ないと思ったガンディーは独立のためのインド国民会議に参加。
ヒンドゥー教やキリスト教の影響で非所有の思想を持ち、非暴力・不服従によって、イギリスに抵抗。塩税に対して塩の行進を行なうなど、その活動は人を引きつけ、後世の多くの社会運動家のモデルとなりました。ガンディーはイギリス製品の不買とインドの伝統的綿製品を着用するアピールで糸車を回しました(インド国旗の中央のチャクラ(輪)はこの糸車が元です)。
しかし弾圧を受ける民衆はしばしば暴動に走り、第二次世界大戦では日本の協力で独立戦争を図ろうとするチャンドラ・ボースらの勢力もありました。ガンディーは日本の覇権主義を批判しますが、日本と共に戦ったインド人兵士が戦後、処罰されそうになったことで、ガンディーは彼らを助けるためにも独立を人々に指示しました。
第二次世界大戦でイギリスは勝利するも、インドを支配する力はもはやなく、独立を達成します。しかしイスラム教のパキスタンは分離。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒は対立し、ガンディーは絶食して抵抗しますが、イスラムを容認しているとしてヒンドゥー教徒のナートゥーラーム・ゴードセーらに、ガンディーを経済的に支えていたビルラー財閥の邸宅で暗殺されました。
ガンディーは非暴力・不服従で抵抗し、その意味では正しい人物ですが、カースト制度の階級は容認しており(カースト外に置かれた最下級の不可触民制度には反対)、近代技術を一方的に否定し、また親族に禁欲を強いるなど、必ずしも万人に受け入れられる思想だったわけではありません。ただ他人には優しい人だったといいます。
ちなみに実際に独立を達成した初代首相ネルーの子孫は代々政治家となり「ネルー・ガンディー王朝」と呼ばれますが、このガンディーはマハトマ・ガンディーではなく、ネルーの娘インディラ(のち首相)と結婚したフィローズ・ガーンディーの姓から来ています。

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