1945年
宮城事件(きゅうじょうじけん)・玉音盤事件

第二次世界大戦の終結は、1945年8月15日。降伏は唐突に決定したわけではなく、実際には、9日に条件付き降伏を決定したところからはじまり、10日に連合国への通達、12日の連合国からの返信、それを受けての無条件降伏の決定、15日に国民にそれを伝えるための手段が実行され、軍の行動停止によって終戦となりました。その間に本土決戦派を抑えつつ終戦に持ち込むため、迫水久常、下村宏、東郷茂徳、米内光政ら多くの人物が奔走しています。
その国民へ伝える手段は、新聞への掲載と、ラジオ放送でした。新聞は発行・配達を遅らせて調整しましたが、ラジオ放送は、事前に重大放送があることを知らせておいて、正午に国民に拝聴するようにして行われました。
その放送内容は、天皇のお言葉。といっても、生放送ではなく、14日夜に収録したお言葉を、翌日正午に放送するというものでした。
8月14日深夜、近衛師団の一部将校らが、無条件降伏阻止のため武装蜂起します。事前に東部軍管区司令官田中静壱大将を味方につけようとして失敗し、また当初本土決戦も視野に入れていた梅津参謀総長や阿南陸相もクーデターには反対していました。
将校らは近衛第一師団長森赳中将と第二総軍参謀白石中佐を殺害し、放送会館や宮中へ乗り込んで占拠し、天皇の声が収録された玉音放送の録音レコード(通称「玉音盤」)の奪取を図ります。皇軍の士官・兵士が皇居(宮城)を襲うという前代未聞の武力クーデターでした。なお宮城(きゅうじょう)とは当時の皇居の呼び名です。玉音盤は皇后宮職事務室に隠されており、クーデター兵に対し、徳川侍従や放送会館の職員が抵抗、さらに田中静壱大将が鎮圧に乗り出すと、事件は失敗に終わりました。その後、予備も含め2枚の玉音盤は極秘に持ちだされて放送会館と第一生命館へ運ばれ、終戦の玉音放送となるのです。

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