紀元前200年
白登山の戦い(漢高祖7年)

漢の高祖劉邦は楚の項羽を滅ぼして天下を統一するが、北方には匈奴という強大な勢力があった。当時の匈奴の王は冒頓単于といい、自分の廃嫡を図った親兄弟を殺して王位を奪い、東胡を滅ぼし、月氏を追い払って広大な国家を築いていた。
劉邦は匈奴に備えるため、北方辺地の代に韓王信(韓信)を置いた。この韓信というのは、背水の陣で有名な韓信ではなく、旧韓の王族出身で、韓信と同名の人物(区別するため一般に韓王信と呼ばれる。ちなみに姓は姫)。
韓王信は、冒頓単于が代を窺っていることを知り、和睦できないか模索するが、それが背信行為とみなされたため、やむなく匈奴に降伏した。
それを受けて、冒頓単于は40万の大軍で太原へと攻め込む。劉邦は自ら32万の兵で迎撃に赴いたが、冒頓単于は偽りの退却を繰り返して劉邦を誘い込み、白登山に包囲した。
劉邦は7日間、ここに孤立し、食料も尽きて絶体絶命の危機に陥った。そこで陳平が策を立て、包囲の一角を開けさせることに成功し、劉邦は脱出できた。この策がどういうものだったのかは記録にないが、俗説では冒頓単于の閼氏(皇后のこと)に賄賂を送って「冒頓単于が勝利すれば、漢から美女が贈られてくることになるだろう」と伝えたため、嫉妬した閼氏が包囲を開けさせるよう働きかけた、と言われる。
劉邦は無事帰還できたものの、この敗戦を受けて、匈奴と和平交渉を行うことになり、匈奴が兄、漢が弟として、漢が毎年、匈奴に莫大な贈り物をするという条件で講和が成立した。この関係は武帝の時代まで続いた。

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