1160年
平治の乱が始まる(平治元年12月9日)
院と朝廷の廷臣らの抗争から発展した内乱で、朝廷・院の衰退と平氏の台頭、源氏勢力の崩壊を招いた戦いです。
藤原通憲(信西)は、保元の乱で勝利した後白河天皇の新体制を担当したことから、大きな権力を握るようになりました。信西が兵力として期待したのが平清盛。天皇及び信西の進めた荘園整理令などの改革は、抵抗勢力も大きく、それを抑えるための武力が必要だったわけです。
これに対して、鳥羽院の大規模な荘園を継承した美福門院(藤原得子。鳥羽院妃で近衛天皇の母)は、鳥羽院の方針だった、後白河から守仁親王(二条天皇)への譲位を進め、その勢力を無視できない信西は、美福門院と協議して譲位が成立します。
改革の途上での譲位に、背景勢力を持たないことを痛感した後白河は、院政を敷くために藤原信頼を登用。東国に基盤を持つ信頼は同じ東国を基盤とする源義朝と手を組みます。ここに朝廷は、信西派、二条天皇(美福門院)派、後白河院派に大きく三分。
信西が政権を動かしていたことから、本来は天皇親政と院政とで対立関係にある二条天皇派と後白河院派は、信西排除で手を組みます。両者は、信西が頼みにしていた平清盛が熊野参詣に赴いた隙を突いて挙兵しました。これが平治の乱の勃発でした。
信西一派は滅ぼされますが、権力を握った信頼に対し、二条天皇派は反発。また危機的状況に陥った平清盛は熊野別当らの協力で無事京へ帰還。これで清盛を取り込めるかどうかが鍵となり、信頼は清盛を味方につけようとしますが(源義朝は清盛殺害を進言していた)、直後に二条天皇が六波羅の清盛邸へ行幸。これによって二条天皇派が武力を確保、天皇・平氏と、院・源氏でふたたび武力衝突。しかし源氏の武力は整っておらず、源氏は壊滅。頼朝以外は処刑され、院政派の主要人物も処罰されて、院政派は衰退しました。これに気を良くした天皇派の廷臣らが横暴を重ねたために清盛の手で捕らえられ、逆に序盤で滅んだ信西の一派は復権します。
結果的に清盛だけが勢力を拡大し、天皇派も院政派も信西派も衰退する結果となりました。
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