1180年
源頼朝に以仁王の平家追討令旨が届く

治承4年4月27日。
頼朝は源氏の頭領源義朝の3男。13歳で平治の乱に参加し、平氏と戦い敗北。父も2人の兄も皆殺害されてしまいます。彼自身は逃亡中に平宗清に捕らえられ、京に送られますが、清盛の継母池禅尼に助命されて伊豆へ流されました。
流刑に処されたと言っても、逼塞していたわけじゃなく、普通に暮らしていたようです。母が熱田大宮司藤原氏の出であることや、乳母が比企氏の妻であることから、それらの支援を受けていたといいます。また平氏系ではあるものの地元の豪族伊東氏や北条氏とも親しかったようで、北条政子を妻に迎えました。源氏の直系とはいえ、もはや地方の豪族のようなものでした。
そんな彼のところに高倉宮以仁王の平氏追討を命ずる令旨が届きます。叔父の行家からでした。頼朝だけでなく各地の源氏に対し出されたものでした。頼朝はこれに応じず、状況を見ることにしました。戦略を考えてのことだったのか、それとも、もはや中央の政局に関わりたくなかったのか。案外迷惑だったのかも。
しかし、彼の立場が危ういものだったことは彼自身が一番理解していたでしょう。平氏が源氏の討伐に動き出すと、彼は挙兵せざるを得なかったわけです。
のち頼朝は平氏を滅ぼしますが、命を救ってくれた池禅尼の子で清盛の義弟である平頼盛を厚遇し、彼の荘園を安堵しました。恩に報いたのだと思います。

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