1945年
ひめゆり学徒隊に解散命令
沖縄戦で看護要員として動員された女子学生の部隊「ひめゆり学徒隊」。
「ひめゆり」というのは、沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の両校を指す通称で、もともとは両校の広報誌の名前を合わせたもの、また、安里川にかかる姫百合橋が起源とも言われています。
1945年3月23日、両校の生徒222人と教師18名の240名が、看護要員として動員されました。ひめゆり学徒隊、というのは正式名称ではなく、通称です。他にも沖縄県立第二高等女学校の白梅隊、沖縄県立第三高女のなごらん学徒隊、沖縄県立首里高女のずいせん学徒隊、私立積徳高女の積徳学徒隊、私立昭和高女の梯梧学徒隊などがあります。
ひめゆり学徒隊は沖縄陸軍病院(南風原陸軍病院)で、傷病兵の看病と手当にあたりました。また、本島南部の各地に分室が置かれて、それらにも配置されたといいます。
沖縄守備隊司令部が自決して組織的抵抗を終える直前の6月18日、学徒隊に解散命令がでました。しかしこのあと多くの犠牲者を出しました。ほとんどが戦闘に巻き込まれたものと思われます。他の学徒隊も、解散命令後に多くの犠牲者を出しています。一部では自決した生徒もいました。米兵を恐れたり、事情をよく把握していない米軍側の混乱もあって、助けられなかった例もあったでしょう。240名のうち136名が戦没しました。
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