1582年
本能寺の変

ユリウス暦では6月21日、グレゴリオ暦では7月1日。天正10年の出来事です。
旧暦6月2日のほうが有名です。
日本のほぼ中央を制圧し、最大の実力者となった織田信長ですが、この日の早朝、京の本能寺で謀反を起こした明智軍に包囲され、衆寡敵せず、伽藍に火を放ち、自刃したとされています。嫡男の織田信忠も二条城にこもって戦いますがこちらも自害しました。
最大の権力者が殺され、その政府が大きく一変することになるクーデターは、日本史上でもあまり類例がないほどの大事件です。一方で、信長の築いていった体制は秀吉に受け継がれ天下統一へつながっていきます。
信長の信頼がもっとも厚かったという明智光秀がなぜ謀反を起こしたのかは、いまもって不明。そのため、黒幕説がやたらとあります。朝廷、公家衆、秀吉、家康、と色々言われていますが、どれも確実な証拠がありません。いずれも推測の域。歴史を揺るがす大胆な陰謀としては、どうも史料がなさすぎるわけですが、そう考えると案外、光秀の個人的な恨み、あるいは考える何かがあっての突発的な事件だったのかもしれません。
ちなみに当時の本能寺は、現在の本能寺とは場所も規模も全く異なります。現在の本能寺は、秀吉の京町割の再編によって寺町に移されたものですが、当時は四条西洞院・油小路・六角・錦小路付近にあり、もっと巨大な伽藍を構成していました。

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