1673年
保科正之死去(寛文12年12月18日)

会津藩松平家の祖である保科正之は、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の四男で、庶子。庶子というのは、正式な婚姻関係を結ばなかった男女の間に生まれた子で、かつ、父親が子供として認めたものを言います。正式な夫婦の間に生まれる場合は嫡出子というので、現代では非嫡出子とも言います。父親が認知しない場合は母親の私生児となるわけです。
秀忠の認知こそ受けたものの、彼は庶子でした。彼を産んだ母親は、「静(のち浄光院)」という女性で、後北条氏の家臣神尾栄嘉の娘とも大工の娘とも言いますが、ようするに秀忠のお手がついたわけです。
秀忠にはお江与の方(「お江」)という正室がいました。養女となっていた豊臣家より嫁いできた浅井三姉妹の三女です。秀忠は頭が上がらなかった、などという話もありますが、夫婦仲は良かったのか子沢山でした。秀忠は他にもう一人手を付けた女性(早世した長男を産んだ女性。詳細不明)がいるものの、この時代の武将としては女性関係は控えめ。恐妻家という話はそのあたりから出たものでしょう(お江の前にも織田信雄の娘と結婚してますが、子供だったため実質的な夫婦関係はなかったと思われる)。
ただ、保科正之が庶子として扱われたのは、当時の慣習で、正室以外の女性が側室となるには、それなりの手順を経なければならず、正室がその上で認める必要がありました(正室には奥向きを管理する義務があった)。どうもそこらへんがうまく行かなかったらしく、見性院(武田信玄次女、穴山梅雪正室)に預けられ、武田旧臣の縁で、信濃高遠藩の初代藩主となった保科正光の養子となり、正式に保科家の跡取りとなりました。彼は兄である三代将軍家光や、駿河大納言忠長からも可愛がられ、大いに取り立てられました。出羽山形藩20万石を経て、寛永20年(1643年)、会津藩23万石の藩主となります。
家光が亡くなる時、正之は枕元に呼ばれて、後事を託されます。これに感激した彼は、家訓を定め、会津藩は将軍家を守護するべし、としたことが、幕末戊辰戦争の悲劇につながります。
正之が活躍するのは、四代将軍家綱の時。参与として幕政に関わり、それまでの武断政治から、文治政治へ方針を転換。
大名が子孫なく死ぬ寸前に養子を取る末期養子は、それまで厳しく制限されていましたが。継嗣なくば改易になるため、正之はこれを認めます。また大名やその重臣が身内を幕府への人質として江戸へ置く大名証人制度も廃止。将軍や大名の死に際しての殉死も禁じました。お膝元の江戸のために、玉川上水の開削を行い、明暦の大火を受けて火除け地(上野広小路など)を作り、延焼防止のために神田川や主な道路の幅も広くしています。焼け落ちた江戸城天守は金がかかるため再建せず、防災などに回しました。会津藩主としても、様々な経済政策・民衆救済の政策を実行しています。一方で朱子学に傾倒し、他の学問を厳しく制限するなどの欠点もありました。
これら思い切った改革が出来たのは、保科正之自身の才能や、将軍から信任されていただけでなく、その出自が非常に高かったこともあったでしょう。

ウインドウを閉じます

総合年表

総合年表ブログ