1212年
法然死去(建暦2年1月25日)

浄土宗の開祖、法然は、美作国久米の押領使・漆間時国の子。9歳のとき、父が、明石源内武者貞明に殺害されるが、父の遺言で仇討ちを断念し、母方の叔父の僧侶観覚のもとに引き取られます。観覚は、彼の才能を買って、比叡山での勉学を勧めます。
比叡山では、源光に学び、さらに皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けました。皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所で、叡空を師として修行。18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱も授かりました。
承安5年(1175年)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏の教えを説く浄土宗をひらきます。東山吉水に住んで教えを広め、親鸞らが学びました。
専修念仏とは、阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという教え。彼は国家仏教としてのあり方から離れ、一人一人を対象として教えを広め、女性にも布教しました。そのため、貴族から庶民まで広まっていきます。
養和元年(1181年)、焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるほどになりますが、俊乗房重源を推挙し、自身は辞退しました。比叡山や興福寺と対立するようになり、さらに彼を信奉するものは、後鳥羽上皇の周囲にまで広がったことで、建永元年(1206年)、後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房松虫と鈴虫が、法然門下の遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵の念仏法会に参加し、出家して尼僧となり、しかも遵西・住蓮を御所に招いて泊めるという事件が起こり、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れたため、上皇は怒り、門弟4人を死罪に処し、法然、親鸞らを流罪に処しました。
土佐配流となるところ、九条兼実の庇護によって讃岐に変更され、まもなく赦免されるも、京に入ることは許されず、建暦元年(1211年)11月、ようやく許されたもののまもなく亡くなりました。

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