1586年
徳川家康の重臣石川数正が豊臣秀吉のもとに出奔

数正は徳川家康の側近だった人物。家康幼少の時から使えており、武将としても、外交官としても活躍しています。桶狭間後の今川家からの独立、織田信長との清洲同盟も、彼の手腕があったからだとされています。家康によって家老となりました。武将としての力量もあり、複数の合戦に出て功績を上げてます。自らも出陣した小牧・長久手のあと、秀吉方と和睦の交渉を担当しました。
ところが、数正は突如出奔。秀吉の元へと行きました。この出奔により、徳川家は秀吉方に情報が漏れることを恐れ、軍制を大幅に変えざるを得なくなりました。
この数正の出奔は戦国時代の謎の一つ。動機がはっきりとわかりません。人材集めの好きだった秀吉が破格の条件で引きぬいた、という説がよく言われますが、数正本人の動機としては、徳川家臣団の内紛で、立場がなくなったという説もあります。
徳川家臣団では、しばしば武将と知将が対立していることや、数正が、切腹した松平信康の後見役だったことも背景にあるのでしょう。命がけの時代であり、それだけにプライドも大きかったはず。一方で江戸時代のように問題が起こっても簡単には切腹しないのも戦国の特徴で、主君を変えることはそれほど珍しくありません。
逆に、徳川家存続のために、家康の命で豊臣政権の内情を探ろうと、表向き出奔したように見せかけたのではないか、という説もあります。
数正は信濃松本藩10万石初代藩主となります。文禄2年に亡くなり、跡を継いだ嫡男で2代目の康長は関ヶ原で東軍に付きますが、大久保長安事件に連座して改易され豊後佐伯に流罪されました。仁科藩初代藩主だった次男の康勝も連座して改易され、豊臣方に付き、大坂夏の陣で戦死しています。

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