1947年
メジャーリーグに黒人選手ジャッキー・ロビンソンが登場
今でこそメジャーリーグ(に限らずアメリカのスポーツ)には黒人選手が多数大活躍をしていますし、その能力の高さは認められていて、その存在に対する差別的意見は、サッカー競技などでのヤジといった一部を除き殆ど聞かれません。
しかし、黒人選手の受け入れは、比較的最近まで拒絶されていました。メジャーリーグでも黒人選手に活躍の場はなく、黒人選手だけのリーグ「ニグロ・リーグ」が存在していました(※1)。
ジャッキー・ロビンソンは、第二次大戦中、陸軍に所属し、幹部候補生にもなりましたが、様々な差別を受けてきました。輸送バスの座席差別待遇に抵抗したとして軍法会議にかけられたこともあります。
名誉除隊後にニグロ・リーグに入り、打率.345を記録するなど活躍しました。しかしニグロ・リーグの環境に馴染めなかったといいます。
そんな彼を誘ったのがブルックリン・ドジャースの会長ブランチ・リッキー。彼は黒人選手の優秀さに注目していました。しかし、黒人選手をメジャーリーグへ入れることは、世間の大きな批判を浴びることはわかっていました。なによりジャッキー・ロビンソンに対する批判が巻き起こることは予想出来ます。そこで、どんな批判にも紳士的に対応するよう求めました。
1946年3月17日、AAAモントリオール・ロイヤルズの選手としてマイナー・リーグにデビュー。1947年4月10日、メジャーのブルックリン・ドジャースに昇格が決定。メジャーリーガーとなりました。
ドジャース以外の全球団が反対し、チームメイトも拒否するなどの動きが見られましたが、ロビンソンはどんな目に遭おうとも紳士的態度を崩さず、コミッショナーやチーム監督らがかばったこともあり、なにより優秀な成績を残し、受け入れられていきました。その結果、徐々に黒人選手が加わるようになり、彼が自ら道を切り開いたと言えます。
彼は1956年12月13日にディック・リトルフィールドと35000ドルでジャイアンツへのトレードの話が出たため、ドジャースに残れないのならと翌年1月23日に引退しました。自分を受け入れてくれたチームに恩義を感じていたのでしょう。
その後は公民権運動に積極的に関わっています。
※1:ただし、初期のメジャーリーグにはモーゼス・フリートとウェルデイのウォーカー兄弟など複数の黒人選手がいましたが、19世紀末ころから有色人種はプレーできなくなりました。
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