1431年
ジャンヌ・ダルクの異端審問裁判が始まる

ジャンヌ・ダルクは、1412年1月6日にフランスのロレーヌ地方にあるドンレミ村の農家に生まれました。
フランスは、北部ノルマンディー地方がイングランドに支配され、王位は、王太子シャルル(後のシャルル7世)がいたものの、イングランドの幼いヘンリー6世が相続することになっていました。1420年にシャルル6世およびイングランドのヘンリー5世によって署名されたトロワ条約で、ヘンリー5世とシャルル6世の娘が結婚して、その子が2つの王国を受け継ぐ、とされていたためです。
ジャンヌは1425年、聖女カトリーヌ、マルグリット、大天使ミカエルの、「オルレアンの包囲を解いてフランスを救うように」という「声」を聞き、行動するようになります。
王太子シャルルは、ジャンヌの聞いた「声」に興味を持ち、彼女と会いました。そこでジャンヌはシャルルに、「声」から授かったシャルルの王としての正統性を証明する秘密の話をしたと言われています。つまり、イングランドに抑えられていた王位継承に絡む問題に発展したわけです。ジャンヌを疑っていた聖職者たちも、ポワティエでの3週間にわたる審理の結果、ジャンヌを認めます。
1429年4月、ジャンヌはイングランド軍に包囲されていたオルレアンに行き、アランソン公、ジル・ド・レイらと共に、イングランド軍と戦いました。ジャンヌの鼓舞により、オルレアンの士気は上がり、イングランド軍は撤退。
その後、ジャンヌは歴代王が戴冠式を行ったランスでのシャルルの即位を主張。そのためにはイングランド軍を打ち破る必要があり、勢いづいたシャルルらは進軍。1429年6月18日のパテーの戦いで大勝利を収めました。7月17日にシャルルはノートルダム大聖堂で戴冠式を挙げ、正式なフランス国王シャルル7世となります。
ところがシャルル7世と側近らは、外交的に地位を固めようと考え、武力によるフランス統一(特にパリの奪還)を図ろうと主張するジャンヌや彼女の支持者が疎ましくなります。人気の高いジャンヌは排除できないものの、次第に孤立感を深めてしまうことに。
1430年5月23日、ジャンヌはコンピエーニュの戦いでフィリップ善良公の率いるブルゴーニュ軍に捕えられます。1万リーブルと引き替えにイングランド軍に身柄が引き渡され、同年12月24日にルーアンのブーヴルイユ城に監禁。そして翌年2月21日に異端審問裁判が始まりました。
裁判長ジャン・ル・メイトスは正当性に疑問を感じ、沈黙を続けたため、イングランド側の意向を受けたピエール・コーション司教が裁判を進め、審理するものらは皆、イングランドに逆らえず、ジャンヌの天使の声を聞いたという主張は退けられ、悪魔崇拝や神を冒涜する異端者とされました。
5月24日、サン=トゥアン修道院の仮設法廷で死刑判決が言い渡されるも、ジャンヌが異端を認め、改宗を告げたので、永久入牢となります。しかし、獄中で異端の行為である男装をしたため、異端再犯として5月30日に火刑に処されました。窒息死した時点で、一旦下ろされ、群衆に聖女でも悪魔でもないことを示すため、裸を晒された上で、遺体は焼却されました。
1449年11月10日、シャルル7世はイングランド軍を破ってルーアンに入城し、1450年2月15日、ジャンヌ異端裁判の調査を命じ、ローマ教皇カリストゥス3世も裁判のやり直しを命じたため、1455年11月7日、ジャンヌの復権裁判が行われます。
その結果、1456年7月7日に処刑裁判の破棄が宣告されました。その後英雄として取り上げられるようになり、1909年4月18日にローマ教皇ピウス10世によって列福。1920年5月16日にベネディクトゥス15世によって列聖されました。
異端として処刑されたジャンヌよりも、彼女を利用したり、処刑した王族や教会関係者のほうが、よっぽど世俗的で異端的だったと言えます。

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