1943年
カティンの森事件が公表される
カティンの森事件は、第2次世界大戦中にソ連のグニェズドヴォ近郊の森で約22,000人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者が内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。
ソ連と協同でポーランドに侵攻したナチスドイツは、その後、ソ連と開戦。ソ連領内へ進み、スモレンスクに達します。ここで、ポーランド人捕虜の虐殺の噂が聞こえてきます。そこで調査すると、2月27日、カティンの森「山羊ヶ丘」で多数の遺体を発見しました。ドイツのラジオ放送は、カティンの森でポーランド将校4千人の遺体を発見したと報じました。
ナチス宣伝相ゲッペルスは、これを反ソ連の宣伝に利用しました。ドイツとポーランドの赤十字は調査を依頼し、ドイツの発信によって世界中に虐殺事件を報道させました。ソ連は猛反発し、これはドイツが侵攻後にポーランド人を虐殺したんだ、と反論します。5月1日から、国際調査が行われ、調査に関わった人々は、これがソ連の仕業だと気づきますが、直後にソ連軍が侵攻してきたため、調査は終わります。ソ連の犯行という内容は、米英政府にも伝えられましたが黙殺され、関係者には緘口令や、左遷といった待遇が為されました。当時は対独戦でソ連は英米の同盟相手だったからです。そして逆にソ連が「調査」を行い、ナチスの仕業であると示しました。
戦後の、ニュルンベルグ裁判でもソ連はナチスによる虐殺と主張、情勢が変わり、英米は受け入れませんでしたが、一般にはこれが受け入れられ、この虐殺はナチスの仕業であるとなりました。ナチスには大量虐殺の事例があるため、無条件に信じられたわけです。
しかし、冷戦崩壊後に再々調査を行った時、ソ連内部で内務人民委員部部長ベリヤの命令によって、引き起こされたことも明らかになります。ソ連軍に捕虜となったポーランド士官と兵士、官吏、宗教関係者など、およそ2万2000人が殺害されたと明らかになりました。
ソ連崩壊後のロシアはこれを認めましたが謝罪はしていません。また、ソ連による捕虜殺害は、他にもあると考えられます。慰霊のためにスモレンスクに向かったポーランド大統領一行が墜落死したのち、その追悼碑の碑文からカティンの森事件の部分が削除されるといった出来事も起こっています。
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