1878年
紀尾井坂の変

当時内務卿だった最高権力者の大久保利通が、麹町区紀尾井町(現在の千代田区紀尾井町)の清水坂付近を馬車で走行中に石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一、島根県士族浅井寿篤の6人によって殺害されました。背景には前年1877年に起こった西南戦争などの士族の不満、政府の政策に対する反発、民権運動の高まり、大久保への誤解などがあったようで、西郷挙兵に連携して挙兵を目指してうまくいかず、個人テロという手段に変わったようです。
西郷隆盛人気があったことから、大久保利通はその後ずっと悪く言われ続けましたが、私財を投じて政治に尽くし、暗殺直前に語った三十年計画の内容からも近代化への責任を自任していたようです。彼が評価されるようになったのは、比較的最近のことというのは、主観的になりがちな歴史の難しいところです。
清水坂は現在ホテルニューオータニ、議員宿舎、清水谷公園のある場所で、紀尾井坂を降りたところ。清水谷公園に巨大な大久保利通遭難の碑が立っています。

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