1868年
近藤勇処刑

旧暦で慶応4年4月25日。
新選組の局長だった近藤勇は、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首されました。享年35歳。首はその後、京都の三条河原で梟首されました。鳥羽伏見の戦いのあと、江戸に戻った近藤らは新選組メンバーを中核に甲陽鎮撫隊を編成し、甲府を目指しますが、慶応4年3月6日(1868年3月29日)甲州勝沼の戦いで敗北してしまいます。その際に隊員同士で意見対立があり、事実上崩壊してしまいます。
その後、旧幕歩兵の募集に応じて「大久保大和」と名乗って下総流山へ出陣しますが、新政府軍に包囲されたため、投降しました。
大久保大和で通そうとしましたが、もと新選組メンバーであった御陵衛士の加納鷲雄が近藤に気づき、正体が露見。薩摩藩と土佐藩で処分方針の意見が対立するも、結局処刑されてしまいました。土佐藩の谷干城が坂本龍馬暗殺を新選組の仕業ではないかと疑い、近藤処刑を強硬に主張したと言われています。
幕末の動乱を受けて、高みを目指すこと夢見、あるところまでは叶ったわけですが、その動乱に翻弄されて終わった、時代の中の人物と言えるでしょう。

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