1564年
第二次国府台の戦い(永禄7年1月7日)
江戸城守将の太田康資が北条氏から離反したことをきっかけに、上杉氏の依頼で里見義弘が国府台まで進出したことで、対する北条氏康も北条綱成を指揮官として出兵します。この時、先行していた遠山綱景・富永直勝らは敗死。
この戦勝に気を良くして油断した里見陣に対し、北条軍は翌日未明、江戸川を横断して夜襲を敢行。里見側は混乱に陥り、正木信茂らが戦死するなどして大敗し退却しました。
また北条側はこの前後に内応工作も進めており、土岐為頼・正木時忠らは里見側から離反し北条側に従い、合戦の結果も受けて、上総一帯は北条氏の勢力圏となりました。
しかし里見側もこの後の永禄10年に、上総三船山を攻撃して北条氏勢力を安房・上総一帯から駆逐するなど、巻き返しを図っています。
なお、国府台合戦は、前年の永禄6年正月にも起こっており、永禄6年・7年の両方の記録が混在して一つになったというのが近年有力な説となっています。
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