1615年
禁中並公家諸法度を発布(慶長20年7月17日)

江戸幕府が定めた禁中並公家諸法度は、天皇と公家衆の統制を図るためのもの、という風に、教えられています。
日本では、公家と武家というのは平安後期より、明確に区分されています。武家はあくまで武力を担う役職で、公家の配下に置かれていました。しかし実質は武家が権力を持つ時代が続いていました。といって、明確に公家を規制する法令があったわけでもありません。そしてなにより、天皇の立場を明文化した法令は、古来よりありませんでした。天皇はあくまで、絶対的な存在であり、法の下に明らかにするようなものではないからです。それをあえて行ったのは、政治を担うのが、武家であることを明確にしたということでしょう。ただし、条文に具体的に武家に権力を委譲し、天皇と公家の権限を剥奪することは書かれていません。天皇と公家はこうあるべき、という道徳的なことと、位や年号、さらに僧侶の地位についてを記してあるだけです。第一条の「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」も、有職故実書「禁秘抄」に指摘された天皇の為すべき事として伝えられてきたものでした。
内容よりもむしろ、法度を定める、という行為そのものに大きな意味があったわけです。

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