1946年
熊沢天皇の出現
名古屋で雑貨商をしていた熊沢寛道が、自分は南朝の後亀山天皇の子孫であるから、皇位継承の正当性があると名乗り上げたのが、いわゆる「熊沢天皇」です。彼は、なにも戦争が終わり、天皇の人間宣言や戦前体制の解体だけで名乗ったわけではなく、戦前から南朝の後裔だと主張していた人物。注目を浴びたのは、この主張をGHQに訴え、アメリカの雑誌『ライフ』が取り上げたから。
彼の養父熊沢大然が南朝の後亀山天皇の子孫と称し、分家から養子で入った彼にもそう教えてきたようです。彼は後に北朝である昭和天皇の在位を否定する訴えまで起こします。
実は彼だけでなく「自称天皇」は結構たくさんいます。その系統はいくつもあり、主なものとしては南朝および後南朝の各天皇・皇族のそれぞれの子孫を名乗っているものですが、ほかにも明治天皇の御落胤や、地方に流罪にされた天皇、実は生きていたのではないかという話の流布される安徳天皇などが現地でもうけたとされる子孫まで多種多様。多くは終戦後に主張したものですが、中には戦前から主張している人もいるわけで、天皇制の割には、こういう自称天皇に対する弾圧は見られません。国民の支持もなく、国体への影響もないため、「頭のおかしい人」として相手にしなかった、というところが大きいのでしょう。
しかし日本を支配下においたGHQが関わってくると状況は違ってくるため、政府は警戒して、熊沢家の直接の祖とされる南朝の熊野宮信雅王の存在を疑問視して反熊沢天皇キャンペーンを行い、逆に金目当てに多くの人が熊沢寛道のもとに集まって来ました。しかし冷戦が始まり、日本を組み込んでおきたいアメリカが、昭和天皇の存在を容認すると、国民もマスコミも関心をなくし、支持者や家族にまで見放されてしまう結果となりました。ちなみに彼自身は「譲位」を行い、仏教徒だったため「法皇」を自称しています。
また、熊沢天皇は、彼だけでなく、熊沢家の本家を主張する各地の熊沢一族も称していました。
根本的な問題として、明治時代に、南朝正統論が出たこともあります。天皇家は北朝の系統であるのに、南朝を正統としたため、南朝を称する人々を勢いづかせたと言う所があるわけです。
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