1657年
明暦の大火(明暦3年1月18日)
江戸時代前期に起こった、江戸時代最大の火災であり、戦争や自然災害以外のいわゆる「火事」としても日本史上最大。別名振袖火事。
江戸周辺では前年秋から80日間も雨が殆ど降らず、しかもこの日は非常に強い北風が吹いていた。そんな中、昼過ぎに本郷丸山本妙寺から出火する。施餓鬼法要の火が飛んだとも言われるが、有名な話が「振り袖」。遠州屋の娘梅乃が恋煩いで亡くなってしまい、その遺品の振り袖が転売され、手に入れた娘が次々と病気になって亡くなったことから、供養のために燃やしたところ、火の付いた振り袖は空に舞い上がり、建物に燃え移り、またたくまに広がったというもの。このため、振袖火事とも呼ばれる。
これとは別に有力な説として、火元は本妙寺ではなく、隣の老中阿部忠秋の屋敷だったという説がある。幕府の権威に関わるため、その火元を本妙寺が引き受けたというもの。本妙寺は出火元にもかかわらず、罪に問われるどころか、火災後、幕府の支援を受けより大きな寺院となっているのがその証拠と言われる。
この火は、北風に煽られて南へとまたたく間に類焼。当時、江戸の街は江戸城の東側に木造の家屋が密集して広がっていたため、神田、京橋、日本橋へと拡大。日本橋は避難民がごった返す中で焼け落ち、その近くにあった霊厳寺に逃げ込んだ人々は川などに阻まれて逃げられず1万人以上が焼死した。
さらに近くの浅草橋では、牢屋敷から囚人が逃げ出したという情報を聞いた役人らが門を閉ざしたために、避難民が逃げられず2万人以上が焼死している。実際には、小伝馬町の牢屋敷の囚人は脱走したのではなく、奉行石出帯刀の一存で解き放たれたのであって、囚人らは感激して、石出帯刀に責任が及ばぬよう全員が火災後に出頭した。この緊急時の切り放ちは後に制度化された。
火災が完全には収まっていない翌日、今度は小石川伝通院そばの大番与力宿所から出火。やはり南へと類焼し、江戸城に到達。天守閣なども焼け落ちた。
更にその日の夕刻、麹町からも出火し、翌日にかけて南東へ向けて類焼して、当時海岸線だった新橋にまで至った。
この3日間の火災で江戸の市街地の6割が焼け落ちたと言われる。
死者は諸説あるが約7万人、最大10万人ともいう。
幕府はすぐに復興へと着手。松平信綱が権限を強化して取り組み、罹災した諸大名へは参勤交代停止と銀を貸し出し、旗本には救済金を支給、一般の罹災民には大名らに命じて6000石の米に加え、焼け落ちた米蔵の焼米まで放出し、復興資金として16万両を用意、米や、復興資材の木材の価格高騰阻止のための買い付けも行った。
さらに都市区画を整理し、御三家・御親藩の屋敷を江戸城外へ、江戸城近辺の大名屋敷を郊外へ移転させ、旗本・御家人1300人も移転となった。
町人地の住民らも、東側では、隅田川対岸の本所・深川、西側では遠く吉祥寺にまで移住させた。これに伴い隅田川に複数の橋が架けられるようになった。
北は本郷・小石川から浅草まで、江戸城西側は赤坂、南は麻布や芝、白金、品川にも都市計画を広げた。寺社も郊外へ移転させられ、現在の浅草や駒込の寺院群、築地本願寺、赤坂山王社などは、このときから。
市街地の所々に広小路や火除土手などの「火除地」も作られた。消防組織である「定火消」制度が作られたのもこの火災から。町人地の建物は延焼しにくい塗屋や蠣殻葺が推奨されたが、崩れ落ちやすい瓦葺は逆に禁じられた。また家財道具を積んで逃げたことが火災を広げた要因ともなったことから、町人らは敷地に無許可で穴蔵を作り、火災のときにはそこに貴重品を放り込み、身一つで逃げるようになったという。
火災で出た大量の残骸は、付近の堀などに不法投棄された(当時すでにゴミは深川新地へ運んで埋め立てるよう法令が出ていた)。火災後には治安も悪化し、火事場泥棒も横行したため、取締が強化されたという。
焼死した人々の遺体も放置されたり、そのまま埋められたりしたため、保科正之が収容を進め、本所牛島新田に運んで埋葬し大きな塚を作った。これがのちに回向院となった。
1590年に徳川家康が入府した際、すでにあった小都市をそのまま整備した状態だった江戸は、この火災をきっかけに周辺へと市街地が拡大した。合わせて道路、橋、水道などのインフラの整備も進んだことで、江戸はこの後、人口100万人の世界有数の大都市に発展。今の東京の原型ともなった。
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