1392年
明徳の乱(明徳2年/元中8年12月19日)
山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱が明徳の乱です。
新田氏の一族、山名氏は足利尊氏の挙兵に従い、その後も尊氏に従い幕府成立に貢献しましたが、観応の擾乱では足利直義に従い、その後は南朝に降り、さらに足利直冬に味方するなど、諸勢力を動きまわり、中国地方に領土を広げました。
その後、足利義詮の時に領国安堵を条件に室町幕府に帰順し、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作の5ヶ国守護となりました。その後も領地を広げ、守護領国は11カ国に達し、日の本六十六カ国の6分の1であるため、「六分一殿」と称されました。
室町幕府は、このような大規模な守護の連合体制の上に成り立っていたため、3代将軍となった足利義満は権力の強化を企図。細川氏、斯波氏、土岐氏などの権力を奪っていき、ついに山名氏を標的にします。義満は、山名氏の内紛に乗じて、氏清と満幸に、時熙と氏之を討伐させます。しかし山名氏の勢力は半減するどころか、氏清と満幸の勢力は増大。
義満は彼らを挑発するため、討伐した時熙と氏之を赦免するという噂を広め、今度は氏清と対立。さらに満幸を京から追放し、氏清と満幸は挙兵を決意。さらに他の山名氏も加わり、大規模な反乱となります。朝廷や幕府は、強大な兵力を持つ山名氏を恐れますが、義満は決戦を決意。京の大内裏がある内野で迎え撃ちました。大内氏や、赤松氏の奮戦もあり、山名勢はたった一日で敗北。反乱に加わった山名領は、畠山基国、細川頼元、一色満範、赤松義則、大内義弘、京極高詮と、将軍側についたり降服した山名時熙、山名氏家、山名氏之に分割され、大勢力は解体しました。
ウインドウを閉じます
★総合年表
★総合年表ブログ