1573年
三方ヶ原の戦い(元亀3年12月22日)
武田軍が、遠江国に進出し、徳川家康と戦った合戦です。
武田氏と東海地方の今川氏は同盟関係にありましたが、これを変えたのは尾張の織田信長の台頭でした。織田信長が桶狭間で予想外の勝利によって今川義元が死ぬと、武田氏は駿河に進出。また織田信長とも同盟関係を築きました。海を確保したかったという事情もあるでしょう。一方、今川から独立した徳川家康も織田との同盟関係を築きます。
武田信玄は、北条や徳川と対立しながら駿河を確保すると、北条氏康の死を期に、北条と和睦、同盟し、西へと進出を開始。これには元亀元年、室町幕府の将軍、足利義昭が織田信長への討伐を各大名に指示したことを受けた背景があります。
武田軍3万人は北条軍と共に、信濃と駿河から、遠江、三河、美濃へ同時に侵攻。徳川が三河・遠江両国で全て総動員しても、侵攻する軍勢の半数にも満たない戦力差に、徳川の支城は次々と陥落。東三河に進出します。また遠江北部の拠点、二俣城の攻防で徳川は敗北。武田軍本隊は動き始めますが、家康の予想に反し、浜松城は無視して通過。家康は籠城をやめ、家臣の反対を押し切って三方ヶ原で武田軍に襲いかかろうとしますが、待ち構えていた武田軍によって大敗を喫します。家康は有力な家臣を多く失い、織田軍も大きな被害を受けました。家康はかろうじて逃走。浜松城に逃げ帰りました。
家康がなぜ無謀な出戦を行ったのか不明ですが、武田軍に無視されながらの籠城という消極策では家臣の離反が進むと考えたのかもしれません。
浜松城に戻ったあと、孔明の空城の計に倣ったのか、城門を開け放ち、それが功を奏して浜松城は攻撃されませんでした。彼はこの時の反省に、自らの苦渋に歪んだ肖像(顰像)を描かせました。
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