1573年
室町幕府の滅亡(元亀4年7月26日)
足利尊氏によって始まった室町幕府。しかしもともと足利家の軍事力と経済力は基盤が弱く、有力大名の力が増して行きました。それが戦国乱世の世になると、将軍家は大名の駒のごとく扱われ、実権をほとんど失っていました。それでも13代足利義輝のように大名らの争いを調停する実力者もいましたが、彼の暗殺後は三好氏の権力下に置かれてほぼ滅亡状態にありました。そんな中、義輝の弟である足利義昭は、織田信長の軍事力を背景に京へ入り、15代将軍となりました。織田信長は果敢な政策と軍事行動で実力をつけていきますが、義昭の下に甘んじて幕府体制に組み込まれるようなことはなく、むしろ将軍の行動を制限します(殿中御掟)。結果、両者は対立を繰り返すようになります。
義昭は大河ドラマ等では無能で滑稽な将軍のように描かれますが、実際には反織田同盟を築き、自身も武力蜂起するなどそれなりに胆力のある人物でした。しかし、有力家臣だった明智光秀、細川藤孝、味方であった荒木村重らは離反。武田信玄も死に、武田軍は引き返してしまいます。信長は幕臣の住む上京を破壊して圧力をかけ、朝廷工作で義昭と和睦を決めますが、義昭は槇島城に籠城。あっけなく敗北し、彼を必要としなくなった信長によって京を追放されました。将軍家の領地も没収され、事実上室町幕府はここに滅びます。
しかし、彼自身は征夷大将軍の地位を失ったわけではありませんでした。有名無実化しただけで、いつか京へ戻り復権することを夢見て、毛利氏らと交渉を重ねていました。しかし世の情勢は推移。信長は本能寺で滅び、義昭は京へ戻るため有力者に働きかけますが、だれも幕府再興は考えておらず、天下は羽柴秀吉のもとに。
天正16年、義昭は島津氏降伏を受けて、ついに関白豊臣秀吉に従い京へ戻り、秀吉への忠誠を誓い、征夷大将軍の地位を返上しました。秀吉は義昭を前将軍として保護し、1万石の領地を与え、御伽衆として側に置きました。義昭にとってはようやく安寧の日が訪れたのかもしれません。秀吉としばしば親しく話をしていたといいます。
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