1945年
長崎市への原子爆弾投下

世界で二番目に実戦で核兵器が使用された出来事であり、2016年現在で、最後に核兵器が人間に対して使用された出来事でもあります。
長崎に投下されたのは、ファットマンと呼ばれ、広島のリトルボーイより球体化した、爆縮型の原爆です。核出力は22kt。爆縮型というのは、プルトニウムのコアを、爆薬の力で周囲から押しつぶして核分裂臨界を引き起こすというもの。この爆薬を均等に配置する技術が非常に困難で、核兵器が各国に拡散しにくい理由でもあり、うまくいくか疑問があったため、最初にアラモゴルドで原爆実験を行った動機でもあります。一方で、砲身型のリトルボーイに比べ、管理がしやすく、核分裂の効果が確実と判明したため、以降の核兵器のほとんどが、この爆縮型となりました。
6機編成の攻撃隊は、硫黄島、屋久島を経て本土上空に達しますが、当初目標の小倉が気象条件により上手く行かず(※1)、手間取るうちに燃料トラブルや、迎撃が始まったことから、長崎に変更されました。長崎も雲におおわれてましたが、原爆は投下(※2)。核爆発の直撃により約7万4千人が死亡。現在までに15万人以上が亡くなっています。山に囲まれた狭い地形で、被害は市街地の中心部に集中していました。爆心地に近い浦上天主堂では、「ゆるしの秘跡(告解)」が行われていたため、大勢の信者が亡くなったことは、後に欧米でも問題視されることになりました。この大破した浦上天主堂を広島の原爆ドームのようにそのまま保存しようという動きもありましたが、アメリカとの関係を気にした田川務長崎市長の決定により解体されました。そのため、倒壊した鐘楼だけが当時のまま保存されています。また被曝マリア像はバチカンで教皇により祝福を受けました。 なお、日本軍部が、米軍の特殊作戦暗号の解読から、攻撃を5時間前に気づいていながら、対応できませんでした。
広島の影に隠れがちな長崎の原爆の惨禍ですが、実戦使用が長崎で最後であることを祈りたいものです。
※1:小倉では空襲警報後、軍の指示で大量に煙を焚くなどしたため、視界不良となっており、その影響もあった可能性があります。そのため、小倉でその作戦を行った関係者らは、長崎市民に対する罪の意識から長いことこの件を言えず、近年まで知られていませんでした。また、前日の隣接する八幡市空襲の火災による煙で見えなかったという説もあります。
※2:原爆は目視で投下するよう命令され、訓練もしていたため、投下できないときは、太平洋上に投棄する予定だったと言われています。しかしレーダー投下するかどうかで迷っていた際に、雲の切れ間から都市が見えたため、急遽投下を決めたようです。

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