1337年
南北朝対立の始まり(建武3年/延元元年12月21日)
南北朝の対立の根源は、皇室が大覚寺統と持明院統に分裂したことが始まり。後嵯峨上皇は皇位継承を自分の息子のうち後深草天皇(のち上皇:持明院統)にしていましたが、それ以降を同じ息子の亀山天皇(大覚寺統)の子世仁親王に継がせるよう遺言して崩御したことから、亀山天皇と後深草上皇とが対立したわけです。対立は鎌倉幕府によって交互に皇位を継ぐという方式で一旦は終息します。
ところが即位した大覚寺統の後醍醐天皇は邦良親王即位までの中継ぎ的な扱いに反発し、自分の子に継がせようと画策。これに反発した持明院統、鎌倉幕府、そして後醍醐の父の後宇多法皇などが邦良親王即位を進めます。
幕府は後醍醐天皇を廃位し光厳天皇が即位。さらに邦良親王が死ぬと、その子の康仁親王を皇太子にしますが、後醍醐は討幕の綸旨を発して倒幕を進め、足利尊氏の寝返りと新田義貞の挙兵で幕府は滅亡。後醍醐は復位し、光厳天皇を無効にし、建武の新政を開始します。
しかし、足利尊氏と護良親王が対立。敵対した北条氏や北条側についた諸氏の所領没収や恩賞の不公平な処置による訴訟の多発、寺社の統制、持明院統の不満、徳政令などで政権は大混乱に落ち、武士の反発も高まります。そのさなか、旧北条勢力が挙兵。中先代の乱が起こります。
尊氏は征夷大将軍の任官を求めますが、後醍醐側は武士の権力復活を嫌い、これを拒否。討伐は勅許のないまま尊氏によって行われ、その恩賞も尊氏が私費を投じて行いました。ここに尊氏は後醍醐から離反。多くの武士も従います。
尊氏は後醍醐側最大勢力の新田義貞の解任を求め、楠木正成らもこれを勧めますが、後醍醐が受けず、尊氏討伐を新田義貞に命じたことから、足利軍も挙兵。一旦は朝廷側が勝ちますが、勢力を回復した足利軍により、建武政権は崩壊しました。
尊氏は持明院統の光厳上皇の院宣を掲げて、新田義貞・楠木正成らを討伐。湊川の戦いで勝利した尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を接収して持明院統の光明天皇を擁立。幕府を開きました。
しかし後醍醐天皇が花山院を脱出し吉野・金峰山へ入山。各地へ自らの皇子を奉じさせて派遣し、南北朝対立が始まります。
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