1222年
日蓮の誕生(貞応元年2月16日・ユリウス暦1222年3月30日)
日蓮は日蓮宗(日蓮法華宗)の開祖。死後、皇族から日蓮大菩薩と立正大師の諡号を受けています。
安房国の出身。漁師の子と言われ、安房鴨川の清澄寺に入り、のちに比叡山、三井寺、高野山などで学び、1253年6月2日(建長5年4月28日)に清澄寺で「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて立教・開宗します。この題目はインドの大乗仏教の経典を鳩摩羅什が翻訳した『妙法蓮華経』からきており、「法華経の教えに帰依をする」という意味で、これを唱えることで仏性が生まれ、真の成仏への道を進むことが出来る、というのが日蓮宗の特徴。もともと聖徳太子が『法華義疏』を記すなど、法華経は日本でも伝来当初から崇められてきた教義で、天台宗などでも唱えられていたもので、天台宗で学んだ経験のある日蓮はそこから影響を受けたとも言えます。日蓮によって法華経は仏教界の中で大きく伸びていきます。
日蓮は当時の世の中に起こる様々な問題が、法華教を軽視した結果だと考え、法華経を信奉するよう権力者に何度も意見を送り、「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と他宗派を厳しく非難したことから、たびたび、他宗派の猛攻撃を受けました。
その結果、幕府によって文永8年(1271年)9月12日に滝口の処刑場で処刑されそうになったことも(処刑直前に光(稲妻とも球電現象ともいう)が走り、兵が怯えて中止になったといった話が伝わっています)。
日蓮は、1282年11月14日(弘安5年10月13日)、武蔵池上の地頭、池上宗仲邸にて入滅しました。
法華宗は多くの従来の宗教と対立しつつも信者を増やし、戦国時代に大規模に勢力を拡大。明治に入り日蓮宗と称し、教義の解釈から大きく日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分かれ、昭和初期には、国家主義的なところが軍人や右翼に信奉され、もてはやされました。現在は勝劣派富士門流系の日蓮正宗とそこから分裂した創価学会が特に大きな勢力ですが、他にも多くの分派に分かれています。
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