1924年
二重橋爆弾事件
1924年1月5日午後7時15分頃、宮城外苑(皇居前広場)を警邏中の警視庁日比谷警察署の巡査が、二重橋付近にいた男に不審尋問をかけます。すると男はいきなり爆弾を投げつけてきました。爆弾は不発でしたが、男は二重橋を目指して走って行きます。
これを見ていた近衛兵が、男の侵入を阻止しようとしましたが、男はふたたび近衛兵にも爆弾を2つ投げつけます。2つともまた不発でした。巡査と近衛兵は格闘の末に男を取り押さえ、逮捕しました。
取調べをしたところ、男の名前は金祉燮といい、大韓民国臨時政府から派遣された独立運動家であることが判明しました。大韓民国臨時政府は、3・1独立運動を機に1919年4月に設立された亡命政府で、李承晩を首班とする閣僚を選出し、臨時憲章を制定しました。
この組織には呂運亨のような日本人と交流のあった人もいますが、李承晩や金九などは強硬派でした。たびたび日本本土にも要員を送っていたと言われ、日本側の新聞にもしばしば「不逞鮮人」「怪鮮人」などと取り上げられています。しかし、この事件が皇族を狙ったものなのか、結果によらずその行為で存在をアピールする目的だったのか、一概には言えません。金祉燮は帝国議会も標的にしており、後者の可能性が高いと考えられます。
金祉燮は裁判において「死刑か無罪」を主張しました。死刑になれば、朝鮮独立運動の殉国者となれるからです。検察も死刑を求刑しましたが、裁判所は一審、二審とも無期懲役を言い渡し確定しました。金祉燮は「収監するなら朝鮮の刑務所に送ってくれ」と請願しましたが却下されています。
昭和天皇が即位した際に、恩赦によって懲役20年に減刑されましたが、1928年2月20日に獄死しています。
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