1955年
ナイロンザイル事件
1955年1月2日、前穂高岳東壁を登攀中の岩稜会の3人パーティの一人、三重大学1年生の若山五朗が滑落し、岩にかけた新品の8ミリナイロンザイルが切断し、墜落死しました。1トン以上の引っ張りに耐えるというメーカー保証つきで、麻ザイルに比べて軽く、数倍強いとされたことから採用したものでした。
その4日前の1954年12月28日にも、東雲山渓会パーティが明神岳で、翌3日には大阪市立大学山岳部パーティが前穂高北尾根で、それぞれナイロンザイルを使用していて切断し、重軽傷者を出しています。
岩稜会会長で、死亡した若山五朗の実兄である石岡繁雄は、実験を行い、8ミリナイロンザイルが、鋭角の岩角にかかると、人間の体重程度の重量で簡単に切断することを突き止めます。
ところが、ザイルを製造した東京製綱は、大阪大学工学部教授で日本山岳会関西支部長の篠田軍治の指導で、1955年4月29日、東京製綱蒲郡工場でマスコミに公開実験を行いますが、実験用の岩角に丸みを付けておいたため、ザイルは切断しませんでした。実は、事前の実験で、8ミリナイロンザイルが麻ザイルに比べて、鋭角の岩角では20分の1の強さしかないというデータを得ていました。篠田も切断することを知っていたため、なぜその誤った結果を受け入れたのか。都合がわるいため、隠蔽したといわれてもおかしくありません。
この結果、滑落事故はナイロンザイルではなく、岩稜会の登山時のミスと山岳雑誌・化学学会誌などで報じられました。
岩稜会側は篠田を名誉毀損罪で告訴し(不起訴処分)、さらに冊子を作って登山関係者やマスコミへ配りました。
井上靖の小説『氷壁』はこれが元ネタとなっています。
日本山岳会はナイロンザイルの危険性を無視し続け、対策を取らなかったために、1973年の法整備までに、ナイロンザイルが切断する登山事故が相次ぎ、少なくとも20人が死亡しました。
法整備の際に政府から安全調査委員に任命された石岡繁雄は、石岡高所安全研究所を設立し、登山用具やビルからの脱出装具の研究開発を行いました。
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