1944年
海軍乙事件
これは、太平洋戦争の最中、連合艦隊司令長官だった古賀峯一海軍大将が行方不明になった事件。
この年の2月17日連合艦隊の拠点であるトラック島の泊地は、大空襲を受けます。そこで連合艦隊は拠点としてパラオに移りますが、ここも3月30日に大空襲を受けます。海軍も迎撃に出ますが、港は機雷をばらまかれ、地上の港湾施設も破壊されたため、夜、司令部をとりあえずフィリピンのダバオへ移すことを決定します。
翌日も空襲が続きますが、夜になり空襲が止むと、ダバオから二式大艇が2機到着します。二式大艇は日本の航空機では珍しく4発エンジンの実用化に成功した高速大型飛行艇です。
古賀長官を始め、司令部要員は搭乗すると急いで出発します。ところが、この2機は低気圧に遭遇し消息を絶ちました。政府は古賀長官らが遭難殉職したとして、古賀大将は元帥に列せられます。
ところが、事態はそう単純なものではありませんでした。
実は、福留繁参謀長らの乗る2番機が不時着水。上陸するも、ゲリラに襲撃されてしまったのです。当時日本の支配下にあったフィリピンですが、統治に失敗し反感を買っており、ゲリラ組織が活動していました。福留はあっさりと機密書類を奪われてしまい、アメリカ軍の手に渡りました。「あ号作戦」などの詳細が漏れ、米軍の対日作戦に利用されたと言われます。ただし、米軍の戦術的勝利に貢献したかどうかは賛否両論あります。福留らは解放され、助けだされますが、海軍内部で情報を奪われたかどうかで聴取されるも、このことが明らかになることを恐れた上層部によって不問にされました。福留はその後、第二航空艦隊司令長官になっています。
なお、乙事件というのは、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死を甲事件と呼んだことを受けてのものです。
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