1400年
応永の乱が終結(応永6年12月21日)
室町幕府は成立当初から、足利家の内紛が起こったこともあり、複数国を支配する有力守護大名が支える連合体制のような様相となってしまい、相対的に将軍権力は弱かったといえます。
足利義満は3代将軍の位につくと、大規模な守護大名を次々と解体にかかります。
そして最大勢力だった「六分一殿」(66カ国の内11カ国を支配した)山名一族を挑発し、明徳の乱でこれを崩壊させ、辺地の3カ国のみにまで減らしました。
残ったのは、大内氏。周防を根拠地とし、南北朝では南朝から北朝へ寝返り、今川了俊とともに南朝最大の勢力だった九州の菊池氏ら南朝勢力と戦い、明徳のこの乱では将軍側について強大な山名氏を打ち破り、勝利を導いた最大の功労者。南朝との講和を斡旋し、南北朝合一への道筋も作ったほど。
しかし将軍から見れば、ひとつ残った大勢力。もともと百済の王族の子孫を称し、東シナ海の交易を支配して莫大な富を持ち、朝鮮の王家とも親しく付き合って、朝鮮に領土を持つなど、半ば独立した存在でした。
義満が権力を握ったまま、将軍位を義持に譲り、出家。北山第の造営を諸大名に命じたところ、それまで関係の良好だった大内義弘は反発。これを機に、朝鮮との関係の深い大内氏に対する懸念が幕府内で噴出。大内義弘も少弐氏との戦いの恩賞がなく、義弘に対する討伐の噂も流れ、ついに大内義弘と鎌倉公方足利満兼は手を組み、さらに義満によって勢力を削られた各大名や、南朝、各寺院らとも連絡を取り合い、兵力を動員して和泉へ進出。堺に巨大な城を築いて籠城戦に入ります。義満も大内討伐を命じ、和泉へ進出。この籠城戦のさなか、鎌倉公方、義弘に呼応した土岐詮直、山名氏の宮田時清、京極秀満らも挙兵。大内攻めの軍勢はそれぞれの反乱に対応するため戻り善戦。堺の攻防戦も将軍側有利になり、義弘は派手な討ち死にを目指し、敵軍の中で最後の一人となるまで戦い戦死しました。
義弘の死によって各地の反乱も終息。ところが残っていた大内氏は義弘の弟で、抗戦派の盛見と恭順派の弘茂・道通の兄弟で分裂。盛見が弘茂らを滅ぼし、逆に勢力を拡大したため、幕府は大内義弘の旧領の内、弘茂に認めた周防・長門と、豊前、筑前を加える妥協案を示し、大内氏は滅亡するどころか、大勢力として復活しました。
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