1959年
廬山会議はじまる

1958年8月、毛沢東は「3年で米英を追い越す」として自ら主導して行ったのが、大躍進政策でした。これは農業生産、工業生産の場で、過度なノルマ主義を導入して、極端な増産を図るというものでした。科学的根拠もなく、技術革新もなく、計画性もないもので、森林伐採と石炭、鉄鉱石から鉄製農機具にいたるまで、資源を浪費して使い道のないほど質の悪い銑鉄を大量生産したり、害獣駆除を名目に雀を皆殺しにして大規模な蝗害を引き起こしたりした結果、大凶作を引き起こし、さらにノルマ主義のために、無理な穀物供出をさせた結果、その後の数年で2000万~5000万人が餓死するという史上空前の人的災害を引き起こしました。
その問題が露になりはじめ、毛沢東は責任をとって国家主席の辞任を表明。劉少奇体制になった中で、中国共産党中央政治局拡大会議、通称「廬山会議」がはじまります。
国防部長の彭徳懐は、大躍進政策の失敗について、毛沢東に私的に書簡を送り、彼を擁護しつつ政策は間違っていないがやや急進過ぎたと婉曲的に指摘します。毛沢東はこの書簡を会議で示し、多くの幹部もそれに賛同します。それらの動きが、自分の失墜、失脚につながることを恐れた毛沢東は、突如、大躍進政策は間違っていなかったとして、彭徳懐をブルジョワジーであり、労働者の搾取を容認している、党を攻撃したと批判演説をします。すると他の幹部も恐れをなして同調。激怒した彭徳懐も激しく反論しますが、これが原因で一気に失脚に追い込まれました。さらにこれを理由に彭徳懐派として多くの人が失脚や公職追放に追い込まれます。
彭徳懐は毛沢東とは古くからの友人であり、遠慮なく意見を言い合える間柄でもありました。そのため、あくまで私信として忠告したのを、毛沢東が公にして攻撃したため、彭徳懐との関係が壊れてしまったわけです。
結果的に、なんの反省も、政策の見直しもなく、毛沢東の暴走を止める人もいなくなり、その後の文化大革命の暗黒時代へと突き進んでいくことになります。
失脚した彭徳懐は、文化大革命のさなか、狂信的な毛沢東支持派の紅衛兵によって公の場で暴行されて半身不随になり、さらに発症したがんの治療も受けられず、悲惨な最期を遂げました。

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